森鷗外の「興津弥五右衛門の遺書」に登場する伽羅木、弥五右衛門は買い入れに反対する相役横田清兵衛を殺害してまで、この香木を手に入れている。さてこの香木、綿考輯録には、寛永三年の項に次のように紹介されている。
「去々年、交趾江渡海せしもの帰国、伽羅持参いたし候、三斎君白菊と御名付、其箱の蓋に御自筆御書付
寛永元年交趾江
渡船同三年ニ来
伽羅白菊と名之
たくひありと
誰かは
いはん
すゑにほふ
秋より後の
しら菊の花
箱長八寸四歩、横七寸六歩、高八寸、板厚サ三歩半、桐之木地ふたハさんふたなり、伽羅木指渡五寸余、外ニ三四寸之木懸目三百目余有之、添居申候由なり」
森鷗外の「弥五右衛門」によると、三斎は「初音」と名づけている(古歌略す)寛永三年息忠利がこの香木を天皇に献上、その時上記の古歌により「白菊」の銘を下賜されたとしている。事実は違うようだ。
「去々年、交趾江渡海せしもの帰国、伽羅持参いたし候、三斎君白菊と御名付、其箱の蓋に御自筆御書付
寛永元年交趾江
渡船同三年ニ来
伽羅白菊と名之
たくひありと
誰かは
いはん
すゑにほふ
秋より後の
しら菊の花
箱長八寸四歩、横七寸六歩、高八寸、板厚サ三歩半、桐之木地ふたハさんふたなり、伽羅木指渡五寸余、外ニ三四寸之木懸目三百目余有之、添居申候由なり」
森鷗外の「弥五右衛門」によると、三斎は「初音」と名づけている(古歌略す)寛永三年息忠利がこの香木を天皇に献上、その時上記の古歌により「白菊」の銘を下賜されたとしている。事実は違うようだ。