我が家の六代目は江戸出府の帰途、讃州江之浦で亡くなったと先祖附は記している。天保五年秋の事である。讃州江之浦とは、現在の丸亀市広島江之浦である。いわゆる塩飽諸島の広島で、ここで病死したとある。遺骸は火葬されることもなく、熊本に帰ってきている。海路はともかく、鶴崎辺りに上がってからの陸路は、さぞかし大変であったろうと思うのである。遺骸が火葬されていない証拠があった。1997年、お墓を改葬するにあたり、地下1.5mのところから現れた甕棺の中から、白蝋化した六代目様が出てきた。首は落ちていたが、完全な形で残っていた。まったくと言っていいほど恐怖心は無かった。(作業に当たったお一人は、恐怖の余り現場を離れられた)新聞種ものだったが、即断で土に還っていただくことにした。大変な作業だった。そのことを書き残しておきたいと思うのだが、筆は全く進まない。
(火葬しようと思ったのだが、火葬は死亡診断書がないと出来ないことを知った)
(火葬しようと思ったのだが、火葬は死亡診断書がないと出来ないことを知った)