故あって志水家に関する資料を集めている。思いがけなく志水元五邸の平面図を見つけ出した。新熊本市史別編第三巻「第三編・建築」に掲載されていた。
志水元五は志水伯耆守清久の二男で、志水伯耆守元五また日下部与助とも名乗り高名な人物である。
綿考輯録から「志水家」のこと
清久の嫡男・九左衛門清治の家系は、元五の子・久馬助元明を養子として明治に至っている。志水凍家(1,200石)である。
元五の直系は継嗣・新之丞を祖とする新九郎家(1,000石)であり、その子・権之助系が隼太家、四郎兵衛系が源九郎家として明治に至っている。
判っている限りにおいては、元五の女子は庄林隼人の孫・隼人一吉に嫁いだ菊なる人がある。又蒲生郷教女・松を養女とし新之丞室とした。
庄林家相関図
元五家資料を見ても、後代元五を名乗った人は見受けられないので、伯耆守元五(日下部与助)の住まいであろうか。志水凍家の資料による元五は天正二年生まれ、慶安二年八月十三日没とある。ここで亡くなったということであろうか。室は蒲生郷安女・和久である。
新之允・久馬助・菊・養女松らとこの家に一緒に住まいしたとは考えにくいが、それにしても大身の元五の住まいにしてはいささか小さく感じるが、このようなものであったのだろうか。志水家菩提寺(元五弟・要善院日當創建)寺内にあったとされる。興味深い史料ではある。
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