歌川広重 六十余州名所図会【肥後・五ヶの庄】
細川藩士・寺本直廉著による「古今肥後見聞雑記」から、五ケ庄(熊本県八代市)に関する記事の抜粋を御紹介する。
実はある方のリクエストに応えていろいろ調べている内に、この資料の存在を思い出し取り急ぎ読み下しをしたものである。
左座氏等についてはこの資料とは異なり、菅原道真の子孫であるとする説が有力であるが、その事をお含みおきお読みいただきたい。
一、五ケ庄の事聞書左之通 天明二年十二月六日五ケ庄久連子の八郎
兵衛と云老六十七歳咄覚書也
五ケ庄ハ八代郡の内にて五人の頭有て五ツに分ル 所謂雑座(左座)・仁田
尾・モミ木・椎原・久連子也 雑座ハ入口にして久連子ハ真の端也 雑
座領の口に境より久連子の端迄十五里程有て雑座の人家
より久連子の人家迄ハ八里程有り 其内所々に人家あれと
も山半ふくにて一所に家居なり難く所々に人家二三軒或ハ四五
軒又六七軒宛有て切々に住居す 人家至て多き所十四五軒
程有て雑座領分六里四方程有之由皆山谷にて平原
少し 當時雑座に居住の雑座中務親は大蔵といふ 當時
隠居にて七十余歳なり 此中務先祖ハ平知盛の二男知
時より続たる家系也 中務兄ハ周防といふ 是ハ前宅にて作な
と致居候由豊丸中務幼名兄なれとも下腹の子故跡に不立 又
外に兄あり合志郡弘生村緒方九郎兵衛方ニ参り裏の方
に家を建住居し子供ニ手習なと教居候 雑座久門といふも
兄弟なれとも故有て五ケ庄を追放せしと云 また藤崎
宮神護寺ニ居候圓宿坊といふも同兄弟ニ而下腹の子なり 右
大蔵子供都而十八人程有之由 右中務居宅す雑座の谷割
といふ所也
一、田尾と云所ハ當時緒方杢之進居住也 是は平家郎
等の家筋にて上総の五郎兵衛か家筋也
一、モミ木と云所ハ當時緒方金吾居住此家筋も平家の郎
盛次
等越中次郎兵衛か子孫也と云
一、同椎原と云所は當時緒方蔵人居住是も平家郎等の
末にて飛弾四郎景家か末葉也と云
一、同久連子と云所ハ當時緒方美濃居住是ハ平の重盛の
三男清経の末葉也 此美濃親ハ大膳と云 當時勝手向宜
敷ハ此美濃也 其次ハ仁田尾の杢之進方也と云傳ふ 平家没
落に及び右乃人々落下暫く豊後の緒方三郎か許に滞
留す此時緒方か娘とき姫を清経の妾として所々さまよひ日向國
津
耳川の邊より耳川といふ所ニ來り 夫より山賊強盗廿年
家の人々を伴ひ五ケ庄に連來と云傳ふ 右とき姫五ケ庄に連来り
今や山に墓有と云 五ケ庄に引籠候ハ文治元年三月下旬
也といふ 今に於て家傳の品あり 鎧チキレタリ 太刀長さ五尺斗り 旗赤地ニ金ノ
蝶ヲ付タリ 此品々銘々の家に置すして三王社の地に小堂ヲ構
へ常に秘し封し入置と云々
三王社三月廿三日・廿四日祭といふ 右傳来之家宝の品々
祭の節と六月土用干の節にて入物の蓋を開く由
一、矢部の奥に屋敷か原と云所の口に宮あり 平ノ重盛の
墓と云て五ケ庄之者三月に参詣すと云へり
一、五ケ庄にてハ安徳天皇入海の日祭と云々
一、五ケ庄七十五軒は同氏の末流にて皆一家也といへり
一、五ケ庄に引籠る平家より今に至数十代の墓は皆山にあり
野石に銘を切て有といふ
一、眞宗菴二ケ所あり熊本順正寺末菴ナリ 庵 文字不知善應 正法菴
一、五ケ庄久連子ハ至而山奥也 熊本ゟ行程小川通廿四里程有之由
一、五ケ庄に引籠居候由世間へ相知候事は慶安四年に洪水出て
人家ヲ洗流し川下に流れ來るものを見て川上の山奥に人家
有事を知れりと云 川下より川上を志し山を傳ひ登りて五ケ
庄有ル事を知れりと云 此節迄五ケ庄よりたま/\人出ても彼所
を深く隠して不語故に人不知といへり
一、五ケ庄の山猪・鹿ハ勿論熊・狼珍 羊・山犬等多し 又鷲・雉多く
又ウワバミ間ニ出る 谷川にイダ・ハエノ類あり 鮎ハ不立といふ
人家に牛馬不飼 犬ハ多く飼置猫ハ不飼と云 食物粟・ひえ
とうきび様々の物あり 麦ハ出来す 平日の食物獣類を品々
食すと云
一、五ケ庄の山奥故か流行の病なし 又雪不強 雷之事ハ終に不
聞といふ
天空の遺産「五家荘」 http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/r/s/A/sA4UYXiBTRlF20NuHk8T0YjW.pdf