天草島原の乱における光尚の動きに着いては ■寛永15年1月5日 で書いた。父忠利は一月十二日登城、出陣の命を受け即日江戸を発った。
そして二十六日には有馬に着陣している。わずか十四日の旅程であるが、病身の忠利にとってはつらいものがあった。
二月二十七日の落城まで過酷な戦いが続くことになる。寒さが募る海辺の地である。
図は永青文庫が所蔵する、忠利使用の紫糸素懸威鉢巻形兜(むらさきいとすがけおどしはちまきなりのかぶと)である。
華美な装飾を廃した大変実戦的なデザインが好もしい。果たしてこれを天草島原の乱で着用したかどうかは判らないが・・・・