熊本城を川尻の地に移そうという企てがあったらしい。肥後宇土軍記下終につづいて又書きがある。
又云、肥後ニて申伝ニ云、忠利公於御長命ハ熊本の御城を川尻へ被為引度思召ニて
御絵図等御内證ニて出来、江戸表被従御内意御心懸被遊置候由申伝候、此処は近く
四方ニ見所無之大河流候ヘハ水筋如何様ニ候共舟入も有之、其自由能るへし、誠ニ
堅固繁昌の勝地たるへきもの也
「本当かいな?」と思わせる一文だが、この事を裏ずける記事が綿考輯録にもある。
ちょうど8年ほど前に 幻の城 で書いたのだが、内容に相通ずるものがある。
川尻町史を読むと「鎮西肥後大渡は九州第一の難處なり、其の源を尋ぬれば、遂に阿蘇神地の南北に出で激流漿の如く此れを白河と云なり。遠久甲佐霊嶽の西を廻り、東して碧漂藍に似たり、此を緑川と云ふ、其の二川合流す」とある。
もっとも「幻の城」によると、城地は川尻の南隣の杉島だと云う。上記「白河」とあるのは現在の加勢川だろうが、当時は白河が流れ込んでおり「白河」と称していたのだろう。いずれにしても水運にめぐまれ、海へ容易に出入りすることが出来る格好の場所ではある。
清正・三斎・忠利そして光尚が城地として目を付けていたという杉島の地に目を向けて見たいと思う。