明暦3年(1657)1月18日に江戸におきた火事は20日まで燃えつづけ死者は3万とも10万人に達したともいわれる。10万とするのは瓦版(写真)によるものだろうが、信憑性はどうだろうか。鎮火しては発火を繰り返し三次に亘った。大名小路の細川藩上屋敷(辰口邸)も多くの大名屋敷と共に類焼してしまった。
「振袖火事」とも呼ばれるが、これは後世の作り話だとされる。火元だとされる本妙寺は責任をとらされるでもなくその後大いに発展している。
隣に老中・阿部忠秋の屋敷があり、実はここが火元なのだが本妙寺を火元としたという節がある。つまり罪を被ったと言う訳だが有りうる咄ではある。
慢性的金欠状態にあった藩は藩邸の再建のために、知行の一分(1%)の拠出を命じている。
江戸の大火事は数度に亘っているが、十二月・一月~三月に集中している。住民の難儀の程がしのばれる。「火の要鎮をいたしましょう・・・」
浅井了意が記した「むさしあぶみ」が詳しい。(早稲田大学蔵書)