あることを調べるために図書館に出かけ、いろいろな資料と共に平川家文書のなかに「平川家の系図と個人の記録」などを拝見したが、目指す成果は得られなかった。
その資料を眺めていたら、なんと我が家の遠祖周辺の記事があり、ながい間知りえなかった情報に遭遇しびっくりしてしまった。
遠祖磯部氏の女婿の家系だろうと思われるが、どうやら磯部家の記録が残されているらしい。
コピーが出来ない為デジカメ持参で改めて出かける事にした。感謝
南阿蘇村の大桜「一心行の桜」は村の開花情報によるとまだ蕾らしく、開花は週末といったところか。
さぞかしの賑わいを見せるのだろう。この場所は観光スポットとなり数万の観光客が訪れるというが、峰家の墓地(私有地)であり、宇土半島郡浦の矢崎城で戦死した中村伯耆守惟冬とその一党が祭られている。夫人は矢崎城で亡くなったとも、幼子をつれて阿蘇南郷の地に逃れてきたとも伝えられる。
中村伯耆守惟冬の出自は南郷の「峰氏」だとされ、この墓地は峰氏(南郷中松の峰城主)によって守られている。
郡浦の矢崎とは阿蘇氏の社領荘園であり、城(矢崎城)を築き阿蘇氏の重臣中村伯耆守惟冬を城代として派遣していた。
天正12年3月薩摩の島津勢に攻められ落城したとされるが、史料に異同が多く決定的ではない。
参考・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2015/06/29 南日本新聞掲載の「さつま人国誌」から引用


これを機に、九州の勢力地図に大きな変化が生じた。六カ国守護で九州随一の大名だった大友氏が衰退し、代わって南九州の島津氏、西九州の龍造寺りゅうぞうじ氏が台頭、九州に三雄がせめぎ合う、いわば三国鼎立ていりつの状況が生まれたのである。
それに伴い、焦点となったのは肥後国の動向だった。肥後には大きな大名が存在せず、国衆が各地に割拠していた。
同八(一五八〇)年春、大友氏に服属していた城じょう親賢ちかかた(隈本くまもと城主)と名和なわ顕孝あきたか(宇土城主)が自立を策した。宗麟は離反を許さじと、大友方の国衆である阿蘇惟将これまさ(阿蘇大宮司家)とその家老・甲斐宗運そううんらが隈本城に攻め寄せた。そのため、親賢と顕孝は人質を出して島津氏に早急の支援を求めた(「旧記雑録後編一」一一三六・五七・五八号)。
島津方では、太守・義久の命で、同年六月、次弟忠平(のち義弘)の家老・鎌田寛栖かんせいと三百の兵が情勢視察のため隈本に派遣された。さらに新納忠元、伊集院久治を大将に、「数万」の軍勢が本格的な支援のために派兵されることになった。そのなかには、隈本城の守将に予定された佐多久政、川上忠智、上原尚近、宮原景晴なども含まれていた(右同書一一七六号)。
その軍勢は肥薩国境の出水郡米ノ津に集結し、船で北上した。陸路をとらなかったのは、肥後南部・求麻くま郡の相良さがら義陽よしてるが阿蘇氏と通じて敵対していたのと、天草諸島の志岐しき麟泉りんせん(志岐城主)などの国衆が島津方に帰順していたためである。
島津軍の船団数百艘そうは隈本の外港である高橋の津(現・熊本市西区高橋町か)に上陸した。翌日、隈本城に入城して、城主の城親賢父子と対面した。そして四方の情勢を探ったのち、まず隈本との連絡を妨げている宇土半島の制圧を優先すべきだと決した(右同書一一六〇・六一号)。
宇土半島には半島南側の矢崎城(現・宇城うき市三角町郡浦)に中村一大夫、北側と思われる網田城(現・宇土市下網田町か)に中村二大夫がこもっていた。二人は阿蘇氏と結んでいたので、島津方はまずこれを攻めることにした。
十月十五日、島津勢の船団は海路、宇土半島を回り、矢崎城近くの浜に上陸、同城を囲んで攻め立てた(右同書一一八〇号)。
「(島津方は)四方八方から閧ときの声をあげ、われ先にと攻め上り、射つけ火矢を散々に射させたので、火炎が天に焼き上った」
城主の一大夫はもはやこれまでと、妻子を殺害したのち、一族郎党が全員城外に打って出た。
激しい乱戦の末、酉とりの刻(午後六時ころ)になってようやく島津方が勝利した。島津方にも市来備前守、長野民部少輔みんぶのしょうなど少なからぬ戦死者が出た。
翌十六日、島津勢は網田城にも押し寄せた。すでに矢崎城の落城を知った城方が戦わずして和議を申し入れたので、城兵を阿蘇方に送るという形で開城が成った(右同書)。
かくして、宇土半島の占領がなり、島津氏は九州制覇に向けた本格的な北進政策の第一歩をしるしたのである。
今春、矢崎城跡を訪れた。地元では、城兵のみならず女性や子どもの犠牲者を悼み、供養碑や供養塔を建立してあったのが印象的だった。
御覧のように古町はお寺と商人の町である。白川に架かる長六橋が薩摩街道の基点でもあり、戦略的意味合いの深い町とも言える。
この古町界隈が城下町形成のはじまりであったとされる。
坪井川に架かる新三丁目橋をわたると、前回ご紹介した「高麗門・塩屋町」である。
古町と新町の関係は番太日記(髭爺日記)にも見えるように、「扨毎ハ新町ばかりにてハれんそくすることなし、又古町ばかりにて扨毎はとゝのハす、宝暦之比新町より古町に申遣す」関係である。「新町・古町贈答の哥」なども残されており、商人が仲良く又競い合っていた様子が伺える。
白川河岸の下河原では上・下の定芝居が設けられた。又罪人の仕置き場もこの場所であり火刑も行われた。
対岸の迎町・宝町などは、山崎の武家屋敷が手狭になったため町人町をこの場所に移転させた事に始まる。