津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■四つの「三宅家系図」

2016-03-25 12:40:37 | 花押

「明智一族・三宅家の史料」から引用させていただいた、細川家家臣三宅家の四つの系図である。同じお宅に内容の異なる系図が四つも有るという事に驚かされるが、この事はまさに明智一族の出自の不確実さを物語っているといえる。
左馬助の存在については、将軍家光の病気の平癒の使者を三宅重元が勤めた折、榊原飛騨守に対し細川光尚が書状で「重元が左馬助の孫である」と書き記していることを以て証明されるとして居られる。

             此度差下申候使者
             先年天草ほんど
             ニ而討死仕候三宅藤兵衛
             子ニ而御座候 寺沢手ニ而夜
             うちの時も 此者手ニあい
             申候 明知日向守ためニひ孫子
             明知左馬介孫子ニ而御座候
             ゆへ 我々とものがれさる
             者ニ而御座候 不調法ニ
             五座候へとも つらを御
             ミしり候て可被下候 以上
                    肥後守
              ひた様 

これらの系図の異同について、ある時期訂正方を藩庁に申し入れをしたがそれが認められず「四つ」の系図の存在に至っているという。
今となっては如何ともし難いことであるが、いずれにしても「四つ」が並存していたことも事実で誠に不思議な事ではある。
 

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■再開「我が家検索リスト」  68-8 寺原

2016-03-25 11:40:43 | 地図散歩

 下部の蛇行する川(坪井川)の右手部分が「68-7 内坪井」である。鉄砲衆などの組屋敷が連なる町「てらばる」である。
現在の地図を御覧頂くと、大きく蛇行する坪井川の流路が改修により直線化されている。
真光寺・順因寺・壽昌寺・流長院などの各寺は場所を替えることなく現在に至っている。 

         堀部助左衛門・吉住伝助・菅村権之助
   真光寺・井場軍太兵衛・中山武兵衛  田尻式右衛門 荒川落左衛門 後藤源助 永田庄蔵
   順因寺・井上五郎右衛門
   壽昌寺・富永助九郎」・小原権内・永井金吾・岐部弥左衛門・長江寿山・神辺丹次・佐藤勝太郎
      山田新兵衛・原田左平次・守田又左衛門 吉永兵左衛門・石原新七郎・緒方佐七郎・塩津恒助・増田藤右衛門・野入隼之助・尾藤健之助
      大塚清之允・宇佐川勘兵衛・則元宗敬・光行寿沢・江藤理右衛門・河口伴次・鹿子木二郎七・
      井口円七・相沢木右衛門
      安藤十左衛門・浅山左納・宝光院
   流長院 

   



 

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■吉浦郷右衛門覺書(三)

2016-03-25 07:22:27 | 史料

一、天草郡ハ寺沢様関ヶ原乱之後御加増ニ被成御座候 唐津
   ゟ海陸四十里余之遠方ゆへ 志摩守様御大切之場所と被思
   召上 城地を御念被入 所々御改被成候 初者栖本に御城御座
   候而 高畑忠兵衛殿と申仁貮千石取ヲ被召置候 其後才津
   村に御城を被築 関主水殿と申是も貮千石取を被召置
   候 此仁元ハ筒井順慶老御内ニて 氏家彦之進と申て 武
   功覚之仁ニて 後 家名を改被申候 右彦之進家来ニ山本
   五郎兵衛と申者 主人ニ劣り不申覚の者ニて 貮千石之
   内ゟ二百石給居候 此者悴五郎兵衛を古藤兵衛様へ被召
   抱置候處ニ 一揆之節本戸ニて首尾好御供申上 相果
   申候
一、才津城も解候而 富岡ニ御城御築 此所 本ハ志岐崎と申
   候を御城被築候て 富岡と名を被改候 最初之御城代田村
   四郎右衛門 知行高弐千石 次ニ中村藤齋老弐千石 其跡藤兵
   衛様被成御座候 右栖本御城代高畑忠兵衛殿御勤之砌 薩
   摩守様を御縁組相調候ニ付 志摩守様ゟの御使者伊勢兵
   庫と申家老之弟伊勢平左衛門と申仁唐津へ被差置候
   處ニ逗留之中 寺沢家之小身をあなとり 何角兎過言被申
   慮外なる様子栖本ニ相聞候付 忠兵衛立腹被仕 唐津
   者其分ニて差通候儀腰抜と成 あわれ当所ニ船ゟ寄申候
   へかしと被申候處 唐津ゟ之帰りニ栖本ニ船懸被仕候付 忠
   兵衛殿歓被申候 唐津ゟ之当所之城代 茶を進申度候
   条 城江御入様ニと申遣呼受 振舞之上数奇屋之中ニて
   何之手もなく平左衛門殿を打果被申候 供之者臺所迄切
   入候を 忠兵衛殿家来城付之侍衆切払 城外へ追払被申 船
   ニ退乗申候 尤味方ニも手負・死人少々有之候由 忠兵衛殿
   早速切腹被仕候 平左衛門殿死かひハ船場へ持出し 薩摩衆
   へ相渡申候 忠兵衛殿へ男子二人御座候 舎兄半兵衛殿・弟
   六左衛門殿と申候 嶋津家へ被對 家督不被仰付 新地五百
   石被遣候 子孫いつ方へそ可有御座候哉 忠兵衛殿下腹ニも
   男子壱人御座候 盛人後高畑久之允と申候て八代前
   の佐渡様へ相勤居申候處 様子有之山本金左衛門と申中
   小姓頭 外ニ壱人打果候様ニと被仰付 久之允を八代御
   城檜木書院ニ召出 打果可申と仕候處 久之允一尺四五寸
   程之脇差ヲ抜合 金左衛門ニ渡合 漸々久敷切合 久之允
   者即座ニに打果 金左衛門ハ深手ニて後日ニ相果申候 右切
   合申候内ニ久之允手の指切落され申候付 後ハ無刀ニて金
   左衛門ニ言葉をかけ 己如きの小悴者蹴殺候ハんと申而間合を
   蹴廻り申候 死骸を見申候處 足の裏ニ切疵数多有之由 折
   節 久之允脇差を細工屋へ遣差替へ持不申故 細工屋ゟ麁
   末成脇差をかりて差居申候故仕負申候由 よき道具持合
   居候ハヽ中/\多勢ニても手ニ及かたく様子ニ御座候由 脇差
   短く御座候故 餘り踏込過付 金右衛門手疵ハ切疵ゟと
   額ニ銙之あたり申候處数多御座候由 中々脇ゟ助申事
   も成り不申程之働ニ而御座候由 八代衆古き人珍敷事
   ニ何れも物語残申候 剛ノ者子孫有之候由との物語
   ニて御座候 

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