この日細川忠興の五男(刑部家祖・図書家とも)の興孝が、永く證人として在府中の江戸より熊本に帰着したと「熊本藩年表稿」は記している。
(これはどうも間違いで21日が本当らしい。引用したのが生田宏著・圭室諦成校訂の「肥後近世史年表」とあるが、まだ確認には至っていない。)
興孝は三歳で江戸證人として出されたが、この年父の勘気を蒙り同母兄・立允と交替させられて帰国途中で剃髪した。
帰着後は高麗門外安国寺に住したが、後菊池の高野瀬(現・菊池市隈府)に移住した。
三斎の最晩年まで関係は良くなかったとされる。
寛永十五年の暮、忠利が息・光尚に与えた書状には次のようにある。
同名刑部事身上成不申 迷惑仕ニ付而 金子かされ候由我等分別ニ相不申候
子之事ニ而候ヘハ三斎様御こらし候ハんと思食 迷惑仕様ニ被仰付候ニ 肥後
(光尚)取持候事却而刑部為如何と存事候
翌十六年一月の忠利書状(光尚宛)
同名刑部事 中を御たがひ候て御誓文ニて御直り候ましきとの儀ニ付而 左候
ヘハ人しちニ進上被成候刑部 三斎様と中をたがひニ落付候ヘハ 公儀へ人し
ちニ上ケ被置候而も役ニ不立儀ニ候間 立允を替りニ江戸へ可被召連と御老
中へ御談合候ヘハ尤との被仰様ニ候
このような状況の中、興孝に替り立允が江戸證人として同年五月二十日に八城を発ち八月十三日江戸に着いた。
興孝の知行を三斎が管理して与えなかったことも一因だろう。その三斎も正保二年十二月二日八代で死去した。
正保三年九月知行二万五千石(光尚判物)を与えられ、その後熊本に出て古京町に移った。
興孝にとっては誠に不本意なことであったろう。三斎死の直前に見舞いに訪ね、懇ろの対面をしたとされる。