平成8年9月24日の熊本日日新聞に掲載された記事である。
■ 西山大衛 (南東8-1)
足利十三代将軍義輝
尾池玄蕃(足利道鑑)又(小池茂左衛門・入道道閑)
女:桜井兼友・正室 水無瀬兼豊養女(足利義辰・女)
女:小笠原長之・後室
西山左京・至之(尾池伝左圧衛門)
後・息勘十郎とともに「御家御断申、京ニ被相越候由」(綿考輯録・巻五十二)
細川忠利公御書出(寛永十五年)千石
細川光貞公御書出(寛永十八年)千石
西山勘十郎 細川忠利公御書出(寛永十五年)五百石
細川光貞公御書出(寛永十八年)五百石
1、八郎兵衛(弟 山三郎氏房)
2、九郎兵衛・道可(養子 実・小笠原備前長之二男 初・八郎兵衛・氏清)
3、多膳・氏政
4、大衛・氏章
5、多膳 (養子 実・田中左兵衛二男)
6、剤(多膳)
7、九郎兵衛(大衛)
8、直次郎(実・弟 八郎兵衛)
9、直太郎(実・九郎兵衛子 大衛)
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西山道鑑消息
1、寛永十五年十一月廿二日 忠利君御書
信長様御所持之御甲鑓御見せ被成り、・・・・・・・・
(綿考輯録・巻五十)
1、寛永十七年十月二十三日・奉書
道鑑様・宮本武蔵 山鹿へ可被召寄候 然者人馬・味噌・塩・すミ・薪ニ至まて念を入
御賄可被申付之旨 御意ニ候 以上
十月廿三日 朝山斎助在判
御奉行中
1、寛永十八年正月二日
道鑑老・西山左京(道鑑子)・同勘十郎(左京子)・同山三郎(勘十郎弟)、
新免武蔵(剣術者也)、源次郎(不詳)、春田又左衛門(具足師)なとハ
奥書院ニて御祝被成候而・・・・・・ (綿考輯録・巻五十二)
1、寛永十八年十二月廿一日 足利道鑑老より鑑物江之状
爰元奉行衆より幸便頼入令啓上候
一、長岡勘解由殿、昨日廿一日致熊本御着候、其表太守様御機嫌能、御息災被成御座、
其上御前之御仕合残所無御座旨御書ニ蒙仰、何より以万々目出度奉存候、就夫貴殿
様・頼母殿・右馬助殿今度御目見え被成候処、結構成御上意被仰出之由承り、先書ニ
も悦入、以書状申上候、弥勘解由殿御相談承、右ニも申上ル通、日本六拾余州ニ其陰
御座候有間敷と存御事ニ候、重々御吉左右奉待存候
一、従光貞様御念比之御書被成下、其上左京亮かた之御書ニも別而被加御念、比愚老息
災罷存候哉と蒙仰、扨も々々難有奉存候、一段と無事ニ罷成候条、御次而之折節可然
様御取成万々奉頼外無他存候
一、去月廿六日・当月二日両度之貴札慥ニ相届、面上同前ニ存、くり返くり返拝見忝存候、
就其大僧正様・双厳院・金蔵院之様子被仰下忝存候、弥大僧正様御息災被成御座候哉、
急便ニ承度奉存候
一、せがれ藤左衛門身上之儀、今度於伏見従太守様別而被加御懇、其上御知行并当物成
残所無御座様ニ被仰出候処、弥貴殿様御取成故外聞実儀忝次第御礼難申尽存候、就
夫女子共召連今日十七日ニ致熊本着仕候、宿之儀奉行衆并備前守殿御相談ニ而刑部
殿御屋敷長屋を御借候而かしニ付而手前より作事仕有付候、御心安可被思召候、愚老
忝様子書中ニ不述申候、御次而も御座候ハゝ可然様ニ御取成万々奉頼存候
一、拙者娘祝言之儀、備前殿と相談仕、年内は余日無御座候付而、来春迄相延申候、将又
先可申上ニ御宿上下共ニ御無事ニ御座候条、御心安可被思召候、猶追々可得御意候
恐惶謹言
足利道鑑法印
義辰 判
十二月廿一日
長岡監物様
人々御中
(綿考輯録・巻五十九)
西山右京消息
1、寛永十五年二月二十三日
島原乱の状況報告書状 長岡監物宛 (綿考輯録・巻四十六)
尾池伝右衛門(西山左京)
千石 (真源院様御代御侍名附)
千石 (慶安三年・真源院様御代御侍免憮帳)(寛文四年・御侍帳)
1、寛永十九年三月二日、監物より小笠原備前ニ遣候状(抜粋)
尾池伝右衛門儀、如被仰越諸人ほめ申由承候、迚之事ニ御家ニ取こミ申度事ニ而候、
ニ三日已前ニ拙宅江御尋ニ而候キ、貴様よりも被仰越候、我等左様ニ存候条、道鑑様
も御座候間、当家へ御座候様ニと存候由、され事ましりニ申て口ふりを承候所ニ、御一
門大勢被召抱候上、又候哉、御家江参候事ハいかゝ候ハん哉と被仰候間、又おしかへ
し申て見申候へ共、伝右衛門殿御口ふり堅ク相聞え申候、又二三日中ニちと用所候而
懸御目候条、幾度も申候而何とそ引入申度心中ニ御座候事
(綿考輯録・巻五十九)
尾池藤左衛門(左京・弟)
千石 ( 同上 )
千石 ( 同上 )
寛文元年八月六日・御暇 壱千石 (※)・・小池藤左衛門
1、細川文書・御判之物
尾池藤左衛門尉殿へ米二百俵、但蔵俵也、并塩五俵・薪三拾駄・炭三十俵可相渡者也
寛永拾八年九月十一日 光尚ローマ字印
奉行中