県内トピックス (2017年2月17日更新) |
長崎新聞
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先に■万延元年三月三日雪模様を書き、松寿庵先生・226講でも桜田門外の変が取り上げられ次回もその続きらしい。
細川家においても水戸藩士を数名預かることになり、大変な警固体制を整えて大事に備えた。
「熊本藩年表稿」には、三月三日「大老井伊直弼、桜田門外にて刺客の難に会う。刺客八人本藩に預けらる。八日諸藩に預替、他藩のもの潜入の模様につき取締」とある。
杵築藩に残る貴重な目撃史料は「江戸状之写 萬延之申年之事」と題されているが、これは後につけられたものであろう。
文面は即日国元に発せられているから、三月三日はまだ安政七年のうちである。万延は事件の後、三月十八日(G暦4月8日)に改元された。
この事件が改元の理由であることは想像に難くない。そして一年足らずの翌年二月十九日(G暦3月29日)文久と改元された。
万延の元号は『後漢書』馬融伝の「豊千億之子孫、歴万載而永延」が出典だとされる。
文久の元号は『後漢書』謝該伝の「文武並用、成長久之計」が出典、ともに時代を背景とした為政者の想いを伺うことができる。
図らずも天皇陛下のご退位が現実的になってきた。現在も海外へ一週間もお出かけになる激務をこなしておられるが、早く天皇の想いが実現されることを願うところだが、どこかで密かに新しい元号の検討が行われているのであろう。
「昭和」の元号は「明和」と出典が同じだという。『書経』尭典の「百姓昭明、協和萬邦」(百姓(ひゃくせい)昭明にして、萬邦(ばんぽう)を協和す)による。
平成の改元はTVで拝見してよく承知をしている。
出典は『史記』五帝本紀の「内平外成(内平かに外成る)」だが、「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味だとされる。
平成も29年が過ぎ、45年間過ごした昭和も「昭和は遠くなりにけり」の感が深い。
浩宮様の新しい時代の元号がどのようなものになるのか大変興味深いし、更なる平和の時代を希求するにふさわしい元号を望みたい。