宝永四年と五年、熊本は大火に見舞われている。共に三月である。
宝永四年は三月五日、藩主の居館・花畑邸の目の前山崎町の住江専右衛門宅の長屋から出火、侍屋敷78軒、古町町1036軒、本山村百姓20軒、寺社18寺が消失した。
翌五年は三月十日、坪井竹屋町から出火1200余軒が消失、多くの死傷者が出た。
これをうけて火除け地として広丁・草場丁が出来、又白川小堰から取水して水道町まで水道が設けられた。声取坂付近で白川に落としたという。
又、享保十四年四月廿八日の 享保十四年・藪の内火事では、この時期どこに住んでいたのかよくわからないが我が家も終えた。
2580軒の家が焼失、多くの寺院も燃え我が家の菩提寺も焼失している。
史料をよく見直してみると、我が家の初代の姪が建立した宗厳寺も焼失していた。
木造にわら葺屋根では、いったん火災となると大災害となる。避難などどうしたのか資料を見てみたいのだがまだ果たせないでいる。
「火の用心致しましょう」