江戸庶民の間で、鍋・釜などを買ったら紙に「細川」と書いて貼ると「金気がとれる」と言われていたそうだが、細川家の財政ひっ迫は日常茶飯のことであった。
忠利公は妹万姫(烏丸光賢室)から数千両かりたり、徳川忠直の家臣で熊本に配流となった春日局の息・稲葉正利の持参金をかりたり・・・綿考輯録は余すところなく記録している。
大身のDS(5,000石)、ET(1,500石) 等についても綿考輯録に詳しい。
又三井家からの巨額な大名貸しについても返済ができずに、「細川家は、前々より不埒成御家柄にて、度/\町人の借銀断在之、此節辻・玉屋・家原、皆/\此御屋敷へ大分の滞故、つぶれ申候 」と町人考見録は記している。
さてここで取り上げるのは、細川家ご一族のU家、少々手元不如意となって思いつかれたのが「講」である。
ここには藩の役人が介在している。一人は吉田鷹之允(吉田如雪の父)、今一人は山内多蔵であり町方を束ねる役職の根取であったという。
文政十二年十一月にはこの二人から古町界隈の大商人に勧誘の回文が出ている。これは一月後一件取り消しとなったらしく、回文の回収がなされた。
処が翌天保元年話が蒸し返し、一口5貫目で16口が古町・新町・京町・西坪井町の大商人が勧誘された。
その他4口は御郡方・町方・櫨方・蝋打所などの藩の部署が参加した。
つまりは藩が公認したということだろうが、町人にとっては迷惑な話である。しかし勇気をもって断った人が二人あったらしい。
この講がどのように運用されたのかはよくわからない。ご大身ならでわのいささか強引なやり様ではある。
付け足し
かってNHKで「銀二貫」という木曜時代劇が放映された。ここでは銀ニ貫=33両=300万円と解説しているが?
都合18口90貫目、上の金額で換算すると13500万円という金額になる。