中上質中厚紙・文政元年、長岡監物より長岡山城、有吉織部殿へ、口上之覚、宇佐大宮司到津三位娘・・・・
私は先にヤフオクで手に入れた文書から ■嫁は到津氏だけど・・・・を書いた。
最近また米田家と到津氏の縁組に関わる文書がヤフオクに出品されている。
大変読みやすい文書ですごくありがたい。
口上之覚
宇佐大神宮到津三位娘を
私隠居長岡齋幼女ニ仕
藪内蔵允名跡相續之二男
藪庄次郎後妻縁組仕度
奉願候以上
文政元年
十月七日 長岡監物
長岡山城殿
有吉織部殿
この内容により薮家八代が養子であることが分かった。
八代・庄次郎は天保11(1840)年に53歳で亡くなっているから、文政元年(1818)当時は31歳でありまだ家督していない。
七代内蔵允は文政七年、旅先であろうか播州明石で死去、これをうけて庄次郎が家督した。
この書状の監物殿は「寛政九年家督~天保三年没」の9代米田是睦であろう。その子が是容、弟が庄次郎である。
これらの関係も「細川藩・主要家臣系図」では触れられておらず、私にとっては新発見だった。
そして是睦自身も ■嫁は到津氏だけど・・・・で書いたように、到津家から夫人を迎えている。つまり兄弟そろって宇佐大神宮・到津家と血縁が結ばれた。興味深い文書である。