喜連川藩という何とも不思議な藩が存在する。
源氏の長者である徳川家としては、由緒正しい足利氏の末裔は疎かにはできないので、5.000石を与え100,000石の家格とした。
喜連川氏は足利尊氏の次男で室町将軍代理家だった鎌倉公方の足利基氏を祖とする名家である。
細川齊護公の五男・良之助様は天保13年(1842)9月7日熊本花畑邸生まれ、嘉永3年(1850)5月には喜連川左馬頭熙氏の養子とり、金王丸・左兵衛督紀氏(細川護美)と改名した。
喜連川藩の次の藩主とはいえども座り心地が悪かったらしく、八年後の安政五年(1858)の自らの意思で今日3月23日離縁した。若干17歳である。
脱走を図ったという話も残されている。
熊本に帰ってからは以前の良之助を名乗り、兄護久が藩主となると志を一つにして藩政改革に奔走した。
京都での活躍は「肥後の牛若丸」ともてはやされた。維新後は藩知事となった兄・護久を支え大参事として藩の改革に尽力した。
一方、良之助に離縁された喜連川家はどういう経緯があったのか、安政5年12月細川宇土支藩の一族である孝常が養子となり宣氏を名乗った。