何気なく「細川家家臣略系譜」を眺めていたら、「河井家の祖は阿部主殿助」という記事が目に入った。
阿部主殿助といえば、宮本武蔵とのかかわりがある記事があったなと思いだした。
一、宮本武蔵ニ七人扶持合力米拾八石遣候 寛永十七年八月
六日ゟ永相渡者也
寛永拾七年八月十二日 御印
奉行中
右御印佐渡守殿ゟ阿部主殿を以被仰請持せ被下候右之
御印を武蔵ニ見せ不申御扶持方御合力米ノ渡様
迄ヲ能合点仕やうに被仕候へと被仰出旨主殿殿所より
佐渡殿へ奉書を相添候と佐州ゟ被仰聞候也
その阿部主殿助の履歴を見ると寛文十二年八月二日に「乱心」として処分されている。
「熊本藩年表稿」を見ても何も記されていないが、藩主・綱利との間で何事かほ機嫌を損ずることがあったのだろう。
阿部主殿で当ブログ内で検索をかけたところ、「旦夕覚書」に次のような記事があった。
阿部主殿と申五百石被下堀七郎兵衛母方の祖父にて(以下略)
そこで堀七郎兵衛を調べてみると、七郎兵衛の祖父新五左衛門について次のような記事があった。
新五左衛門義兄(弟)冨田小左衛門(光尚殉死)跡式について
堀新五左衛門二男藤松重次(伯父小左衛門重直殉死之年生レ申候、後小左衛門
ト改)四歳ニ成候時、承応元年小左衛門跡式五百石拝領
(綿考輯録・巻65-P492)
この伯父なる小左衛門とは、福島家牢人富田与兵衛重冬の四男で富田家初代・小左衛門重直のことである。
与兵衛は細川家三卿家老の有吉家の武蔵守立行の婿であり、次女が堀新五左衛門に嫁いでいる。
小兵衛は細川光尚に殉死したが、跡目については次のようにある。
跡目之事慶安三年七月十一日六丸君より御家老中ニ被成下御印之覚書
冨田小左衛門母ニ弐拾人扶持方遣之候、小左衛門女房之儀未若年之由ニ候間
和田主膳肝煎可然存候方江縁ニ付尤ニ候、其方なとも存寄所於有之ハ可有其
沙汰候、縁ニ付候内ハ右女房ニも弐拾人扶持方遣候事 (綿考輯録65-P506)
富田家の跡目は、堀新五左衛門の二男が継いだ。
2代-小左衛門(養子 実・堀新五左衛門二男・藤松重次)四歳ニ成候時跡式五百石拝領
九番小笠原民部少輔組 五百石 (真源院様御代御侍名附)・・藤松
いろんな記事に巡り合って、阿部主殿助の実力のほども垣間見えてきたが、略系図にすると堀七郎兵衛と弟・小兵衛は異母兄弟としないとつじつまが合わなくなり、少々困っている。
有吉立行ーーー+ーーー興道
|
+ーーー英貴
|
+ーーー●壽桂
‖ーーーー+ーーー小左衛門===小左衛門 2代-小左衛門(養子 実・堀新五左衛門二男・藤松重次)四歳ニ成候時跡式五百石拝領
富田与兵衛 | ⇧
+ーーー●二女 ⇩
‖ーーーーー+ーーーー小左衛門(二男)
堀新五左衛門ーーー新五左衛門 |
‖ +ーーー七郎兵衛(嫡男) 阿部主殿と申五百石被下堀七郎兵衛母方の祖父
阿部主殿助ーーー●