このようなコピーが顔を出した。
慶安三年綱利の遺領相続前、幕府内に於いては、宇土細川家に半国を相続させれという案が存在したらしい。
宇土支藩においては国許へ報告、家老福知平左衛門が急きょ江戸へ下り、宗家に対し恐れ多いこととして藩主をいさめたために殺害
されたという話が残る。その一端をうかがわせる史料である。
此書不審之儀共左ニ記ス 但元ハ付紙之由
一丹後守行孝丑ノ年ニテ慶安三年十四歳ニ當ル 未タ御貢献可仕御年
齢ニ無之 公儀江秘事之手遣等可有之時節ニ無御座候 殊更
綱利公御代ニ至候而ハ御本末之御間も 御前代より者振合宜敷候
左候得者手前より企候悪心ニてハ無之酒井公之御内意にても
起り候事にても候哉之事
圓寂湛相信士 慶安三庚寅年六月三日 俗名福知平左衛門勝定
墓所ハ宇土泰雲寺ニ在り
一綱利公慶安三年寅四月十八日御遺領御相續被蒙仰候 福知
命日者同年六月三日
右之条々不審ニ付書付入置申候以上
己四月 井戸一水
井戸一水ハ井戸亀右衛門
子孫ニ而宇土御家司
代々勤候井戸ト見へ候
以上朱書宮村氏雑撰録巻八ヨリ写加フ
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この話には前段があり、「梅原丹七・福知平右衛門一件略記」という記録が残されている。
そのうちのこの事件にかかわる福知平右衛門の件については過去ご紹介したように思うが、ブログ内検索をしても見つからない。
又資料そのものが現況行方知れずであるので、見つかり次第ご報告しようと思う。
蛇足ながら、井戸一水という署名があるが、通常は「井門」と記されていることが多い苗字で、なかには「いかど」と読まれる方がおられるが、ここにあるように「いど」が本当であることを記しておきたい。