今回は「朝山家」について触れたい。
熊倉功夫氏の著「後水尾天皇」を読んで知ったことだが、御光明天皇の侍講となった朝山意林庵は慶長15~17年にかけて細川家に仕官していたらしい。朝山亀太郎家の初代、斉助はその意林斎の弟だという。
お若い御光明天皇に意林庵は「中庸」を講じたとされる。承応二年のことであり、その折弟の斉助にあてた書状が熊倉氏の先述の著に紹介されている(中公文庫p185)
2代目次郎左衛門は陽明学に親しんだために、綱利代、その故をもって寛文九年に「御暇」となっている。初代斉助の長兄幸綱の孫だとされるから、朝山家は幸綱ー意林庵ー斉助(景吉)の兄弟であったことが判る。
昨日は熊本史談会で「儒学、そしてその変遷」をお聞きしたが、綱利の御小姓頭を勤めていた2代目次郎左衛門が、異学とされる陽明学に親しんだために同志と共に追放された。
質疑の中で「何故朱子学が幕府に重要視されたか」という質問があったが、まさに「封建的支配を理論づけるのにふさわしく学問」として位置づけられるに及んで、陽明学は異学として排斥された。
多くの人々が禄を離れたり離国したりしている。不幸な事件であった。
長い徳川家による支配が、幕末陽明学を信奉する人々によって覆されることは必然であったのかもしれない。
熊本に於いては実学派の誕生が見られるが、これとて米田監物の「坪井派」、横井小楠の「沼山津派」に分派するなど、学問の変遷の中の一端を見る思いがする。
■ 朝(浅)山亀太郎 (南東43-13)
1、斉助・景吉
原城にて武功之面々御褒美被下候 寛永十五年九月朔日 千石加増
(1)側小姓・御扈従役歟 五百石 (於豊前小倉御侍帳)・・斉
(2)御児小姓并御伽衆共 五百石 (肥後御入国宿割帳)
(3)御詰衆 弐千八百弐拾石一斗三升 (真源院様御代御侍名附)
(4)二千八百二拾二石 (真源院様御代御侍免撫帳)
(5)御小姓頭 同上
2、次郎左衛門(養子・斉助長兄幸綱の孫)
(1)有吉頼母允組 御小姓頭 弐千八百拾石余
(寛文四年六月・御侍帳)・・次郎左衛門
(2)寛文九年十一月御暇遺候 (※) 陽明学徒追放による
寛文九年十月七日 御暇 (※)寛文元年八月~寛文九年(御暇)小姓頭
讀史総覧より
朝山次郎左衛門 名は幸和、自全と号す。年三十六にして致仕し、洛西嵯峨に隠棲す。
篤く聖学を信じ、就中王陽明良知の学を尚べり。
天和二年四月十二日歿す。年四十九。
3、斎之助(次郎左衛門子主膳の子・景隆) 細川斉茲公御書出(天明八年)百五拾石
朝山静全 名は景隆、斉之助と称す。藩に仕へ京都留守居役を勤む。
文化三年九月歿す年九十三。
参考:朝山斎之助覚書(上妻文庫-144)(雑撰録-巻19 一名見聞雑記)
参考:肥後畸人伝・先哲偉蹟拾遺
(以下略)