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関ケ原の戦いにあたり、石田三成の命を受けた小野木重次(丹波福知山城主)、前田茂勝(亀山城主)ら諸将に率いられた15,000とも云われる西軍が、細川幽齋がわずかの手勢で守る田邊城を取り囲んだ。
支城にあった人たちも三々五々この城に逃げ込み、わずか500人ほどの人数で、 慶長5年7月19日(1600年8月27日)~9月6日(10月12日)に至る籠城が行われた。
禁裏からの勅使をうけ幽齋は城を明け渡すが、忠興にはいささか合点がいかぬ事であったらしい。
9月21日付け宮津からこれら籠城衆にあてた書状である。
已上
昨日廿日かめ山迄令
着候處ニ城可相渡
由申候へとも徳善院ノ
事候間可成程馳走
可申と存様子内府へ
申入候其御返事次第可
下國候扨々二度相
候ハん事夢とのみ
思ふ事候面々籠城
さへ奇特と存候ニかせき
とものよし無比類儀
にけおち候やつ
はらあまりの事ニ
にくげなくおかしく候
恐々謹言
九月廿一日 越(花押)
宮津より
籠城之衆中
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一、田辺御籠城衆(北村甚太郎覚書より)
寺井吉右衛門 荒木善兵衛 日置善兵衛 丸山助左衛門
加藤新助 大塚源次 松山権兵衛 佐野三之允
加納曲斎 麻生喜左衛門 神戸喜右衛門 坂井半助
寺井道運 村野庄助 久代右近右衛門 大野源十郎
築山五右衛門 上羽小右衛門 山本三郎右衛門 矢野七助
中村甚左衛門 上原甚七 上林助兵衛 上羽新兵衛
岡本新兵衛 三戸屋四兵衛 北村石見 宮部市左衛門
北村甚太郎(宮村出雲) 入江淡路 北村勘三郎 前田七郎右衛門
箕田甚之允
不分明二カ三カ也
右は絵図之表各付有之面々合三十 ○ 人
外尓 嶺山衆各 宮津衆各