昨日我が家の米櫃が心もとなくなったから、夕方近所のスーパーで購入しようと思ったら、いつものコメ(無洗米5㌔)がない。
普通のコメを買えばよかったのだが、明日は入るだろうと思い、改めて出てこようと帰宅した。
今日は昼食後出かけてみると、いつもなら平積みされている普通の米の山が一切見えない。
棚を見回すと、2キロの無洗米の小袋が五つ程だけ並んでいる。これは大きい小さいとか高いとか言っておれない、躊躇せずに購入した。
帰宅してよく見ると「新米」とある。そろそろ品も揃うのだろうが、米どころ熊本がこうなるとは思わなかった。
8月26日ブログで「コメ騒動」を書いたが、その後別に変わった様子も見られなかったが、今になってこのありさまである。
亜熱帯化した今年の日本の異常気象は、今年だけの現象と考えるのは危ないのかもしれない。
減反政策で米農家が減っている中で、瑞穂の国のコメ不足は笑えぬぞと云いたくなる。
農林大臣は熊本出身の坂本大臣、備蓄米の放出をして「男を上げる」機会を失された。
熊本史談会の9月例会が21日に迫っている。今月で4回目になる担当講座の史料が未だ出来上がらずに少々焦り気味である。
「箱根関所」の通行証を取り上げて少々お話をしようと思っているのだが、そもそも「箱根関所」がいつ出来たのかさえはきとしないらしい。
(神奈川新聞社刊-加藤利之著「箱根関所物語」)
慶長5年以降、慶長15年頃までには設けられたらしいという漠然としたものである。
「入り鉄炮と出女」という言葉があるが、鉄炮については至って初期の時代であったらしく、後にはもっぱら「出女」に異常なほどの力がそそがれている。
乗物で通る者は「戸を開かせ」女乗り物は女(人見女)に見せることとしているが、「公家・御門跡、大名家」はその限りではないとしている(寛永2年)
特に「女改め」が厳しくなったのは寛文8年の頃らしく布達文書が残されており、「女手形」の書式などが定められている。
そして「髪切り」という女性の髪形については、人見女が女性の髪をとかせて改めたという。
細川家の文書には、この女性の髪形改めについては寛永~元和の時期をうかがわせる貴重な文書が残されているが、先述の「箱根関所物語」では取り上げられていない。
著者がこの事実を御存知であったならば、内容も少々変わったのではないかとさえ思える。
お読みいただくと説明の必要はないと思うが、「三斎」とあるところを見ると忠興隠居後の元和9年以降在豊前の間の事件となる。
寛永2年迄は大名女中衆の駕籠改めは成されていないから、それ以降の同4年・7年・9年の三回にわたる江戸下向の際のことだと思われる。
女性の駕籠改めが厳しくなったのが寛永8年だとされるから、この事件は9年の事か?
今日はこんな話を資料をしてまとめ上げなければならない。