横手の禅定寺横の拡幅なった道路が車が多くて近所の皆さんは悲鳴を上げておられる。
かっては小島方面からは熊本駅方面を迂回して市中心部へ入っていたのだろうが、今では西回り道路からこれに繋がった横手~新町ルートへ
車が集中しているらしい。
禅定寺様が相当の寺地を犠牲にされて成った道路だが、一方禅定寺様はお墓の移転改葬などにご苦労されている。
そんな中に雲林院(うじい)弥四郎のお墓がある。
その弥四郎はウイキペディアにも記すように、忠利の肥後入りの翌年「寛永10年(1633)に肥後へ入り、再び忠利の側に仕え藩士に柳生新陰流を指南している。」
三年後忠利は、八代にいる父・三斎にこの弥四郎を紹介している。
■寛永十三年八月四日の忠利から三齋に宛てた書状案(十二--837)
戸田流之なかれか、柳生流をつかひ候ものか、御慰ニ子共ニ、御つかわせて候て、
可被成御覚候間、進上可申由、此町ニ遣有候彌四郎と申者、牢人にて柳生流を少
つかひ申候、戸田流ハ無御座候、(以下略)
八月四日
佐方與左衛門尉殿
尚々、兵法つかひ候もの早々進上可申を穿鑿仕、遅進上申候、以上
宮本武蔵と御前試合をしたという話が残されているが、三齋はその武蔵について興味を示していないのか発言があまり見受けられない。
しかしこの弥四郎については随分気に入ったようで、いろいろな発言が公式に残されている。
大いに顕彰してしかるべき人物である。禅定寺様がこの後どうなさるのかもお話を伺いたいと思っている。
■同八月五日三齋の返書(六--1437)
書状披見候、先日兵法つかひ之儀申候処ニ、柳生流つかひ候者給候、一段満足申候、
則今日召出、兵法見申候へ共、今日は黒日・帰忌日に当り候、兵法之儀ニ候間、明
日寅之日ニ候条、召出見可申と存候、云庵御知候者之由候、親より兵法つかひ候由、
加々山主馬所より由緒懇ニ申来候、無調法なるハ卒度もかまひ不申候、今ハ鷹野も
無之内ニ迄居申ニ付、小姓共腹病迄ニ成申候、稽古させ可中と存候、我々気合同前
ニ候、気ハさのミわるく無之候へ共、曽而食事成不申候、去年江戸にて発候時分に
て候故と存候、明日兵法見申候而、慰可申と存候、恐々謹言
八月五日 三齋宗立
越中殿
御返事
■同三齋の書(六--1440)(抜粋)
彌四郎兵法存之外見事ニ候而、柳生弟子ニ是程之は終ニ見不申候、これをつかはせ
小姓共成かね候所、我々立て遣候て見申候か、一段薬と覚申候
■同八月九日の忠利書状
彌四郎兵法能御座候由、久敷つかいてニ而御座候、就夫、弟子共成兼候所、折々被
成御立之由、御気も晴、御積ニ所残御座有間敷候、此等之趣可有披露候、恐々謹言
八月九日
■同八月廿九日の三齋書状(六--1443 抜粋)
彌四郎儀此中毎日ほねをおらせ申候、気魂成者ニ而、先日も如申候、存之外柳生流
巧者にて候、我々小姓、兵法今度初而にて候ゆへ、一切合点不参候間、又春ハやと
ひ可申候、此由留守居共に被申付置可給候、打大刀も初心ニ候へ共、りきミのなき
つかひにて候、猶期後音候 恐々謹言
八月廿九日 三齋宗立
越中殿
進之候