3月8日に熊本大学で行われる講演会「熊本藩士上田久兵衛と幕末維新」を、血縁の一人として楽しみにしている。
東京大学史料編纂所の資料からの「新しい知見」とあるが、上田久兵衛に関わる「幕末京都の政局と朝廷-肥後藩京都留守居役の書状・日記から見た」は当時の編纂所所長の宮地正人教授のご苦労によっての成果である。
その後の「新しい知見」に興味が尽きない。
宮内庁書陵部からのご出席は、察するところ「中川宮」と上田久兵衛との親しい交流をお話になるのではないかと思っている。
熊本の近世史において、京都留守居役・上田久兵衛の仕事ぶりは忘れられつつある。
私は一時期の「公武合体」運動の大きなうねりの中で熊本藩の存在を大いに発揮した人物として評価されるべきだと思っている。
倒幕により薩長勢力に牛耳られた近世から近代にかけての戦争に向かった結果を見る時、公武合体による幅広い衆議による国家運営がなされていたならば?などと、「歴史にもしもはない」と承知しながら考えてしまう。
熊本における上田久兵衛の研究家・鈴木喬氏は、上田久兵衛について「ひとえに細川韶邦につかえた」人と評されている。
つまり、韶邦の「公武合体」に対する熱意を実現させたいという思いが京都におけるエネルギーとなっていた。
幕末の熊本の政局は「実学派VS学校党」で語られることが多いように思うが、「公武合体」は一時期党派を超えて藩の総意であった。
しかし時の流れに抗えることが出来ず執政等は藩是を覆し、久兵衛は免職となった。
その執政等は韶邦を支えることも出来ず、一部の勢力が朝廷の意をかりて韶邦を藩主の座から引きずり下ろした。
そして改革派の護久、その弟・護美を登場させた。一種のクーデターともいえる。
韶邦夫人は一条忠香の養女で三条実美の実妹である。明治天皇の皇后・美子は一条忠香の実娘である。
明治五年、明治大帝と皇后は、韶邦の今戸邸をお訪ねになっている。
そういう意味で、韶邦が朝廷を疎かにするとは考え難い。ひとえに「公武合体」を理想に掲げた人であったと確信する。
我家に伝わる話によると、韶邦が東京の今戸邸で病に伏すと、久兵衛は一人熊本から見舞のために上京したという。
「ひとえに細川韶邦につかえた」久兵衛を誇らしく思う。
そして西南戦争に当たっては、川尻の前の奉行職の名の元に、川尻の町を戦火から守るべく奔走したが、新政府により罪を着せられて斬首された。
熊本大学永青文庫研究センターの今村直樹先生の「明治維新後の上田休一廃藩置県・細川家・西南戦争一」を伺えることも楽しみである。
久兵衛の無念の死から再来年は150年に成る。つまり、西南戦争で多くの被害者がでた明治10年の事だが、私は静かに禅定寺の彼の墓前に手を合せるのみである。
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