津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■北野松梅院のこと

2024-09-12 09:27:53 | ご挨拶

 この「北野」とは北野天満宮のことである。「松梅院」とはその筆頭社家である。
細川家はこの「北野松梅院」とのかかわりも深く、その血族・ニ家が細川家藩士となっている。
北野天満宮は菅原道真をお祀りしているから、家紋は「梅鉢」であり、細川藩士二家も同様である。

一昨日、ご厚誼いただいている東京本郷のお茶に係る御道具を扱っておられる F 様からお取り扱いのカタログが送られてきた。
幽齋公の実弟・玉甫和尚(大徳寺住持)の「阿弥陀の三字」「達磨画讃」などの御軸など特にご紹介があったが、それと共に私が注目したのは近衛信伊筆の書状で「松梅院(禅昌)」に宛てた言伝を依頼する文章である。
ここに禅昌に関する説明文が次のようにあった。
  北の天神の筆頭社家。連歌を通じ里村紹巴ら(と)親しく交流。慶長一二(1607)法印。
  禅昌の一族の女性が秀次の側室であった為、紹巴共に秀次事件に連座、禅昌は三年にわたり浪人生活を
  するが、秀吉の亡くなる直前に復権す。慶長十七(1612)隠居。徳勝院建立。北野社家日記を遺す。

秀次事件は秀吉の狂気ともいえる。細川忠興女・長の婿、前野出雲守景定も父親と共に事件に連座、切腹をした。
お長も同様であったがいち早く忠興が出家させたので難を逃れている。

北野天満宮は「北野の大茶会」でも知られる、豊臣家ゆかりの神社だが、社家に対しては秀次事件という俗世の関りで割を食った。
先に私は忠興の妹(加賀)聟・木下延俊の「慶長日記」をご紹介してきたが、三人の娘の内、二女・於豊(おぶん)を秀吉の正室高台院が身近において愛した。
高台院はこの於豊を京に居住させたいと欲して、北野天満宮筆頭社家・梅松院に嫁がせている。
「慶長日記」は慶長18年の一年間限りのものだが、大坂の陣に二年前の豊臣家に忍び寄る滅亡の足音はまだうかがえず、延俊と高台院の交流など穏やかな日々が伺える。
「於豊」が何時梅松院に嫁いだかは、資料不足ではっきりしないが、大坂の陣以降かもしれない。
徳川の天下になると、家康は「豊国廟」に対し、過酷な弾圧を期している。その座主が細川家ゆかりの吉田神道家の梵舜であることを想うと、豊臣家と細川家とのかかわりも深いものがあることを知らしめる。

サイト検索している中で、山澤学氏の論考「北野社祠官筆頭松梅院の定着と豊臣政権ー『北野社家日記』禅昌記の考察ー」という興味深い論考を見出した。
秀次事件を含め大変興味深い論考である。
直接的な記事は見受けられないが、「於豊」の婿殿は禅昌の嫡子で松梅院を継承した禅意であろうと思われる。

長い間疑問に思っていたことが一つ解明できて少々気分良くしている。

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■「其方」とはどなた?

2024-09-10 06:41:47 | オークション

【深和】細川三斎 消息軸装「花形茶碗の文」真筆(細川忠興 三斎流 茶人 千利休 戦国武将 戦国大名 中世古文書)

   

 大変な人気ぶりで多くに方々が応札しておられる。出品者により以下のような釈文が紹介されているが、( )の文字が欠落している。
「其方」とあるから家臣かと思ったがが、「恐々謹言」とあるから頭がこんがらがってしまう。

三斎自筆とは考えにくく、祐筆の筆によるものだと思われる。

           もし今度茶
         会もとまいらせ候、其方
         花形の茶碗(を)
         かし(可)給候、すき
         すみ上しらせ
         可申候、恐々謹言

         十一月廿日 三斎(花押)

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■江戸勤番に於いて死去すると・・・

2024-09-07 17:44:02 | ご挨拶

 四日の日、熊本でひらかれる従兄弟会に出席されるために東京から来熊された、細川藩士・T家のご子孫にお目にかかり、一時間ばかりお話をした。
史談会の会員で心友であった故S氏と御親戚で、思い出話も含めて色々お話をしたが、氏のお話の中で細川家の江戸勤番侍が亡くなるなどのことがあった時に葬られたお寺にお詣りされてことなども話題になった。
細川家の菩提寺の東海寺の中にある「少林院」のことだと思うが、東海寺のあたりはすっかり高層マンションなどに様変わりしているようだ。
資料を調べていたら今日の日付の次のような史料に出くわした。配置図も掲載していたので再掲しておく。
少々お見苦しいがご容赦下されたい。我が先祖で江戸で死んだ者はいないが、江戸から帰国中瀬戸内で死んだ人がある。
下男が付き添い遺骸は無事熊本に帰った。

        

 七九四
一江戸勤番之面々死去之節、所々之寺院え葬送有之候處、
 遠路之事ニ付、其子孫之内江戸詰等無之候得は墓参も出
 來兼、年隔候得は墓所等分兼候儀も有之由、不便之事ニ
 被聞召上候間、非常御儉約中なから相應之寺院、永代御
 借受、御家中惣墓ニ被成下候ハヽ、永々墳墓等分兼候様
 なる患有之間敷被思召上候旨被仰出候、依之今度東海寺 
 中少林院・白雲庵両寺へ御頼ニ相成候間、近版之面々之
 内若不幸有之候ハヽ、御中小姓以上小林院、足輕以上は
 白雲庵へ懸合、勝手葬送いたし候様、且宗旨違たり共不
 苦、勿論望次第他之寺院へ致葬送候儀は、勝手次第之事
 ニ候、此段一統及達置蚊申旨候條、左様御心得、御支配
 方えも可有御達候、以上 
    定府之面々は、本行之患無之候得は、依望は主人 
    /\ハ本行両寺へ葬送いたし候儀不苦候
   一若不幸之節、本行両寺之内ニ葬送有之度候ハヽ、
    其段御役所へ申出有之次第、御寺へ申向之紙面相
    渡蚊申候
   一右葬送ニ付て之懸合筋、向後諸付届物等は都て妙
    解院納所へ仕向有之候様
     但、葬式料之儀、寺納之員數少分ニても、其程
     ニ應葬式勤方有之由ニ付、此方より懸合次第取
     計有之筈候、追々之振合も可有之候間、其節ニ
     臨、得斗納所へ申談か有之候
   九月七日          江戸詰御奉行中

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■「織田信長」の新たな手紙の発見

2024-09-06 19:14:10 | 新聞

織田信長の手紙を発見「あなただけが頼りです」 細川藤孝に送る

毎日新聞配信」を引用

<picture><source srcset="https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20240906-00000059-mai-000-3-view.jpg?pri=l&w=640&h=448&exp=10800&fmt=webp" type="image/webp" /><source srcset="https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20240906-00000059-mai-000-3-view.jpg?pri=l&w=640&h=448&exp=10800" type="image/jpeg" /></picture>

織田信長から細川藤孝に送られた手紙の発見を発表した永青文庫の細川護光理事長(左)と、熊本大の稲葉継陽教授=東京都千代田区で2024年9月6日、高島博之撮影

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■お詫び

2024-09-06 06:48:54 | ご挨拶

 妻が入院して50日ほどになりますが、曲がりなりにも主夫役をこなしてきました。
買い物、家事、洗濯と主婦の仕事の大変さを大いに実感しています。
極暑の夏の最中に重なったこともあり、疲労の蓄積が半端なく、脳の働きも低下して、ブログの文章をつづる作業が億劫になる有様です。
昨晩はやや早めにベッドに入り9時間ほどの睡眠をとりましたが、全身の倦怠感が抜けません。
病院に出かけ、点滴でもうってもらおうかと思案したりしています。
体重が落ちて喜んだりしていましたが、5㌔減り6㌔に至ると少々心配になってきました。
妻の退院の目途がつきませんが、帰ってくればいろいろ介助もしなければならず、こちらが倒れるわけにはいかず、今のうちに体力回復に勤めねばと思っています。
そこでしばらくの間、ブログを不定期にさせていただきたく思いますのでご理解をお願いいたします。
今日も熊本は35℃を越しそうで、これが一番身体に応えます。皆様も御同様のことと存じますが、御身お大切にお過ごしくださいませ。
                                       津々堂 敬白

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■こすてをちやりて

2024-09-05 06:19:40 | ご挨拶

 昨日鹿児島の「いも焼酎」を飲みながらふと思い出したことがある。

   2022年の6月25日「世界ふしぎ発見」で、日本最古の焼酎の記録が紹介されて一躍有名になった。
鹿児島県伊佐市にある「郡山八幡神社」に残された下の写真(鹿児島県教育委員会資料より)の木札である。
ここに書いてある文章が人知れず460余年にわたり、神社の座主さまの悪口が掲示されてきた。
これが発見されて、神社の関係者も驚かれたことだろうが、貴重品の故を以て取り外され現在は公開されていない。
神社の工事に当たった二人の大工が「座主は一度も焼酎を飲ませてくれない、迷惑(残念)なことだ」と辛らつである。
ここに不思議な言葉がある。「こすてをちやりて」だが、鹿児島弁だから理解に苦しむ。
「こす(う)て」は「こすくて=狡くて」だが、「ちゃりて」はどうやら相撲の「打っ棄り」に通ずる「うちすてる」の意だと思われる。
「座主さまは狡くて焼酎を振舞うことなどうちすてている」の意であろう。

            

 永禄二年といえば、信長が尾張を統一した時期にあたるが、遠く鹿児島ではこのようなのどかな話が残された。
芋焼酎を飲んで悦に入っていたが、当時は「コメ焼酎」ではなかったかともいう。
熊本はコメ焼酎だがこればかりはお許しをいただいて私は「芋」派である。

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■三斎公お気に召したか・・

2024-09-04 08:41:06 | ご挨拶

 横手の禅定寺横の拡幅なった道路が車が多くて近所の皆さんは悲鳴を上げておられる。
かっては小島方面からは熊本駅方面を迂回して市中心部へ入っていたのだろうが、今では西回り道路からこれに繋がった横手~新町ルートへ
車が集中しているらしい。

禅定寺様が相当の寺地を犠牲にされて成った道路だが、一方禅定寺様はお墓の移転改葬などにご苦労されている。
そんな中に雲林院(うじい)弥四郎のお墓がある。
その弥四郎はウイキペディアにも記すように、忠利の肥後入りの翌年「寛永10年(1633)に肥後へ入り、再び忠利の側に仕え藩士に柳生新陰流を指南している。」
三年後忠利は、八代にいる父・三斎にこの弥四郎を紹介している。

 ■寛永十三年八月四日の忠利から三齋に宛てた書状案(十二--837)
      戸田流之なかれか、柳生流をつかひ候ものか、御慰ニ子共ニ、御つかわせて候て、

      可被成御覚候間、進上可申由、此町ニ遣有候彌四郎と申者、牢人にて柳生流を少
      つかひ申候、戸田流ハ無御座候、(以下略)
           八月四日                                   
                                                                         佐方與左衛門尉殿
       尚々、兵法つかひ候もの早々進上可申を穿鑿仕、遅進上申候、以上 

宮本武蔵と御前試合をしたという話が残されているが、三齋はその武蔵について興味を示していないのか発言があまり見受けられない。
しかしこの弥四郎については随分気に入ったようで、いろいろな発言が公式に残されている。
大いに顕彰してしかるべき人物である。禅定寺様がこの後どうなさるのかもお話を伺いたいと思っている。 

 ■同八月五日三齋の返書(六--1437)
      書状披見候、先日兵法つかひ之儀申候処ニ、柳生流つかひ候者給候、一段満足申候、
      則今日召出、兵法見申候へ共、今日は黒日・帰忌日に当り候、兵法之儀ニ候間、明
      日寅之日ニ候条、召出見可申と存候、云庵御知候者之由候、親より兵法つかひ候由、
      加々山主馬所より由緒懇ニ申来候、無調法なるハ卒度もかまひ不申候、今ハ鷹野も
      無之内ニ迄居申ニ付、小姓共腹病迄ニ成申候、稽古させ可中と存候、我々気合同前
      ニ候、気ハさのミわるく無之候へ共、曽而食事成不申候、去年江戸にて発候時分に
      て候故と存候、明日兵法見申候而、慰可申と存候、恐々謹言
      八月五日                三齋宗立
              越中殿
                 御返事

 ■同三齋の書(六--1440)(抜粋)
      彌四郎兵法存之外見事ニ候而、柳生弟子ニ是程之は終ニ見不申候、これをつかはせ
      小姓共成かね候所、我々立て遣候て見申候か、一段薬と覚申候 

 ■同八月九日の忠利書状
      彌四郎兵法能御座候由、久敷つかいてニ而御座候、就夫、弟子共成兼候所、折々被
      成御立之由、御気も晴、御積ニ所残御座有間敷候、此等之趣可有披露候、恐々謹言
           八月九日 

 ■同八月廿九日の三齋書状(六--1443 抜粋)
      彌四郎儀此中毎日ほねをおらせ申候、気魂成者ニ而、先日も如申候、存之外柳生流
      巧者にて候、我々小姓、兵法今度初而にて候ゆへ、一切合点不参候間、又春ハやと
      ひ可申候、此由留守居共に被申付置可給候、打大刀も初心ニ候へ共、りきミのなき
      つかひにて候、猶期後音候 恐々謹言
           八月廿九日            三齋宗立
                   越中殿
                     進之候 

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■ヤフオクで勉強させて頂いております。

2024-09-03 06:29:43 | オークション

    【深和】細川三斎 ローマ字黒印状軸装「上様御振舞の文」寛永七(1630)年六月九日付 筑紫広門宛 真筆(細川忠興 三斎流 茶人 中世古文書)

           

  解説や読み下しなど完璧で出品者の誠意が伺えるお品です。時代背景の解説なども大変ありがたく勉強になります。
  細川家にはこの筑紫広門の三男・重門が召し出されています。以下はこれに関する記事です。  津々堂
    
        広門:編年集成五月九日之所ニ、庚子の亡慮筑紫上野介義冬入道夢庵か子
           主水、一昨日七日細川越中守隊に属し、功名を遂る旨言上せしかは、
           夢庵今日神君ニ拝謁することを許さる、寛永三丙寅年主水ニ三千石を
           賜、御家人となると云々、此事ハ四月十日松井右近より興長江之書状
           ニはや見へ申候、忠興君殊外御取持被成候由 (綿考輯録-巻十九)

        重門:寛永八年五月廿六日(三斎公)忠利君江被進候御書之内
            筑紫主水子息右近 相国様へ未御目見不被仕候ニ付 此度六次而ニ
            御目見被仕候由 一段可然儀候 我々ハはやとく 御目見仕たると存
            候而居申候つる事            (綿考輯録-巻二十二)

商品説明
細川三斎のローマ字黒印状です。

筑紫広門に宛てたもので、はらら子(魚卵)を贈られたことへの礼と、上様(徳川家光)が旗本衆とともに盛んに茶会や猿楽を催しており、番組や献立を見ても圧巻で日本開闢以来の大規模なものであると称賛する内容の書状です。

西軍に与し浪人となり永らく三斎の庇護下にあった筑紫広門が、旗本に列した寛永4(1630)年以降、そして三斎が在府の時の書と見られ、『徳川実紀』大猷院殿御実紀・寛永7(1630)年五月朔日条に見える「西城にならせられ申楽あり。紀水両卿及在江戸の諸大名并諸有司見ることをゆるされ饗せらる」の文がこれにあたるとみられます。江戸城では前年六月から小堀遠州により西城茶室や二丸園池亭が造成されており、この時期に将軍家光・大御所秀忠ともに連日能楽や茶事を行っている様が看て取れます。三斎67歳の筆です。

『徳川実紀』の茶道・能楽記事を見てみると、家光治世初期は大御所の茶事の記事が多く、溺愛する忠長のもとへの御成で盛んに振舞・演能が行われたことが分かります。しかしながら寛永7(1630)年前後は忠長の乱心・失脚が取り沙汰された時期であり、本作は老将三斎の目からも、27歳の家光が権力基盤を盤石なものとし、満を持して武家式楽に励んでいたことを如実に示す文書といえる歴史的にも貴重な逸品です。


◆細川三斎
安土桃山・江戸前期の大名。幽斎の長男。妻は明智光秀の娘玉子(細川ガラシア)。名は忠興、通称を与一郎、三斎は号、法名は宗立。はじめ秀吉に従うが、秀吉歿後は家康に従い関ヶ原の戦で大功をあげ、豊前中津藩主、のち小倉藩主となる。和歌・画・有職故実に長じ、また茶の湯を利休に学び七哲の一人に数えられる。正保2(1645)年没、82歳。

◆筑紫広門
江戸前期の武将・旗本寄合席。筑紫氏当主。諱は春門、従門、茂成、のちに広門。通称は善吉郎、従五位下・主水正。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで西軍に味方し参戦、西軍敗北により浪人となり肥後国に住む。慶長19(1614)年に小倉藩主細川忠興に就いて以前の罪を謝し、大坂の陣に参戦。元和元(1615)年に京都で徳川家康に拝謁した。寛永4(1627)年に旗本寄合席に列し、知行地として豊後国速見郡に3000石を与えられる。

             〔本文〕
                  為御見舞遠路被差
                     越御飛脚御懇書
                     殊爰元稀成はらゝ
                     子(腹子)曲物一つ御上も満足
                     則賞翫仕候、
                     上様此頃御機嫌能
                     御はたもと衆於御城
                     御振舞被成、御能被
                     仰付候由、目出度儀共ニ候、
                     御能くみ御振舞之
                     御献立迄具ニ被仰越
                     貴様別而御参候由、目出
                     度候、御人数三千五百
                     余御座候由、日本初り
                     ての大き成可為御振
                     舞と存候、恐惶謹言

                            三斎
                          六月九日   宗立(印)

                     筑主水様  御返報
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■「木下延俊慶長日記」と細川家(5-了)

2024-09-02 08:45:42 | ご挨拶

慶長十八年
   十月一日:朝の五つ時分、小倉(忠興居城)より御状共参り申候。
     五日:八つ時分ニ内記さまより御状参り候。
     六日:中津より御返事参り候。
     七日:越中さまへ柿を遣はされ候。五十参り候。
     十六日:長前兵へヲ、長中務殿(細川孝之)ノ御向えニ遣はされ候。
     十七日:次太夫(小倉より)罷り帰り申候。越中殿一段御機嫌の由申候。
     十八日:小倉へ飛脚遣晴候。右近(松井)殿、民部(松下)殿、圓齋へ御状を遣はされ候。
     十九日:小倉へ飛脚を遣はされ候。
     廿六日:今日は細内記さまへ御鷹を遣はされ候。
   十一月
     朔日:外記(延俊弟)さまへ内記さまより参り候状を遣はされ候。夜ノ四つ時分ニ小倉より飛脚参り候。
        江戸御普請のふれ状参り申候。則ち御返事を遣はされ候。
     二日:小倉への御状を遊ばされ、御使者ニ■分太兵衛を遣はされ候。
     十三日:中津より大しゃくの御鳥参り候。小倉より御鷹の鳥ごいさぎ三つ、かも五つ、うづら六十六、さんか貮つ参り申候。
        則ちご返事を成され候。
     十五日:天キよく候也。三番鳥二日出を御立ち成され、中津へ日の入り二御着成され候。日暮候て、御城へ御出に成られ、
        夜半過ぎ二御宿へ御帰りに成られ候。内記さまよりははだぎ(肌着)を遣はされ候。
     十六日:天キよく候。中津より細内記殿ト御同道成され候。(中略)頓て小倉へ御付き候て御風呂へ御入り候也。
        其の後、越中殿に御相ひ候也。
     十七日:天キよく候。越中殿たか野へ御出候、則ち殿様も御出候也。
     十八日:早朝二越中殿御すきに相成され候。御たかも参り候。昼過ぎ二又城へ御上り申候。
     十九日:圓齋処へ越中殿御出候。則ち殿様も御座候。其の後御鷹野二御出候。
         晩二越中殿ト御すき二御座候
     廿日、早朝二小倉ヲ御立ち候て、中津ニ御とまり候。(松井)右近御鷹を上せ申候。中津ニて内記さま御鷹進上成され候。
         風呂も御座候
     廿一日:朝六つ時分二中津を御立ち成され、内記さま御同道成され(中略)。御城へ夜ニ入り五つ過ぎニ御帰り成され候。
     廿三日:小倉へ二郎介を遣はされ候。右近(松井)かたへほそうつぼ、くまのあをりを遣はされ候。
         越中殿へ御鷹のうづら貮十遣はされ候。
     廿四日:小倉より(木下家江戸不振の手伝い)御普請千石と申し来り候。
     廿六日:四つ時分二中津へ飛脚を遣はされ候。
     廿八日:与右衛門小倉より帰り申候。二郎介ももどり申候。内記さまより犬を引きて参り候。

   十二月
     一日:内記さまより御鷹の鴨、きじ参り候。則ち御返事を成され候。
     二日:織部(松井)、三郎右衛門所へ、御鷹の鳥の御状を遣はされ候。
     四日:内記さまへ御鷹の鶉の御状を遣はされ候。
     八日:今朝小倉へ飛脚を遣はされ候。晩ニ中津より御高の鳥参り候。
     九日:小倉へ人を遣はされ候。
     十日:松井織部ニ御茶湯を成され候。
     十一日:松井織部かたより御礼ニ人ヲ遣はされ申候。
     十二日:中津へはやぶさを遣はされ候。
     十四日:中津へ飛脚を遣はされ候。又中津へ遣はされ候山五郎罷り帰り候。
     十七日:中津へも御矢百、御文も遣はされ候。
     十八日:中津より御返事参り候(中略)長中務(孝之)殿へくり矢を遣はされ候。
     廿二日:松(井)式部殿より飛脚参り候。夜ニ入り中津より御状参り候。
     廿八日:二郎介中津より帰り候。内記さま長二郎と申す小小姓、腹を切り申候由咄し候。

                     (了)

 日出から中津までは約42㌔ほどだとされる。歩行にて1日の距離、中津から小倉までは約54㌔ほど、そんな距離を隔てた、木下延俊と義兄の細川忠興、甥にあたる細川忠利との誠に頻繁で親しい交流ぶりが見て取れる。
翌年は細川家・木下家共に江戸城普請に忙しくなるが、大阪の陣が勃発する気配が感じられる時期であろう。
     

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■ますほの小貝

2024-09-01 11:30:51 | ご挨拶

  月が替わったので九月の和名「長月」で俳句を検索していたら

    長月のますほの小貝包みをり  という中島陽華という方の句を見つけ出した。(掲載誌「槐」・2001年1月)

「ますほの小貝」というと、私は心友・エッセイスト近藤健氏のエッセイ「増穂の小貝」がすぐ思い出される。
  (私は氏の著書「肥後藩三百石米良家」の出版にあたり、いささかのお手伝いをした)
氏は京都の大学の三回生(昭和56年)であったときに、故郷・北海道様似に帰郷する道すがら、作家・福永武彦の随筆集「遠くのこだま」にある、能登半島冨来を題材とした「貝あわせ」に登場する「湖月館」を訪ねておられる。
その時のことをエッセイとされたのが「増穂の小貝」である。
福永武彦が「むすめむすめした若いお嬢さん」と書いた、湖月館の娘さんのことを思い出し、金沢から二時間ものバスの旅を経てこの町にたどり着くとその旅館に電話を入れ、懐具合と福永の「貝合わせ」のエッセイのことを話して宿をとっている。
文学青年の淡い恋心にもにた、そんな純粋な行動をエッセイにされたものが、文芸春秋社発行の「日本エッセイスト・クラブ編」の2009年のベスト・エッセイ集に掲載された。残念ながら廃刊となったが、氏は4回にもわたりプロの名だたるエッセイストに伍して掲載の栄に浴された。

 西行法師の歌「潮染むるますほの小貝ひろふとて色の浜とはいふにやあらむ」における「はすほの小貝」という言葉は、近藤氏の「増穂の小貝」とは意味も場所も異にしている。
松尾芭蕉の「小萩散れ ますほの小貝 小盃」も同様で、西行の歌にもある敦賀市の色の浜であることは良く知られている。
「ますほの小貝」は場所を特定しているのではなく、「美しい淡い赤い色の小貝」という意味に解されているらしいが、最初にご紹介した中島様の句も同様の解釈によるものだと思われる。
福永武彦氏や近藤氏の「増穂の小貝」はまさに、石川県志賀町の富来の旅館「湖月館」と「増穂の浦」を舞台にしている。
増穂の浦では「美しい淡い赤い色の小貝」に限らず、数十種のいろんな色の小貝が見つかるらしい。
「ますほの小貝」は増穂由来のものなのではないかと考えたりしている。

旅館「湖月館」は本年の元旦の日に起きた能登地方地震で大被害を蒙られたらしい。以前の地震の際も被害を受けられたらしいことを近藤氏からお聞きしていた。
再建の道もなかなか険しい状況にあることを「中日新聞」の記事で知った。湖月館の皆様に熊本地震の地からささやかなエールを送りたい。
大暴れをした海もいまは穏やかな表情で、増穂の浦に色とりどりの小貝を打ち上げていることだろう。

 

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■五ヶ町ニ準ズ=宇土町

2024-09-01 06:46:15 | ご挨拶

 宇土の町が五ヶ町に準ずる取り扱いを受けたのは、佐敷・鶴崎と共に政治的拠点であったからだとされる。
それが宝暦年間のことであることは承知していたが、宇土については以下の記録を見出した。
佐敷・鶴崎(豊前)もこの前後に布達されたのだろうか?

 三六九
   覺
一宇土町之儀、在町ニ被加置候處、此節被相改、熊本町並ニ被仰付候、尤御郡並之御用相勤候儀は今迄之通ニて、
 諸事無違亂質素ニ相心得候様可有御沙汰候、以上
   同年(宝暦七年)九月朔日           ■寛永より寶暦迄・郡中法令 より

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