若者よ、
本屋で聖書をみたら、大きいだろ!
辞典かと見間違うだろ。
でも、心配いらないよ。
春平太の話は、最初の数ページについてだけだ。
そこだけの薄い冊子が聖書だと、ず~と思っていていいんだ。
はじめの所には、ゴッド(日本語の聖書には「神」と書いてあるよ)が地球上の世界を造った話が書いてある。
動物も、植物も、人間も、海も、山も光をもね。
ゴッドは英語だ。これは正確には「万物の創造主」という意味だ。
(そうぞうしゅ)とも(つくりぬし)とも読める。
春平太は、正確な言い方をするよ。
読み方はどっちでもいいが、春平太は(つくりぬし)と呼ぶよ。
漢字では、「造」の字を省いて、創主と書くことも出来るよ。
このときも、(つくりぬし)とよんでね。
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「俺たちを造った創造主がいるんだって? 馬鹿らしい・・・」
~~って思わない?
そうだよね。
だけど、はじめから「馬鹿らしい」とか「利口らしい」とか思わない方がいいよ。
まあ、とにかく、聖書のイメージ世界に耳を傾けてみるわけだ。
「へ~え、そうですか」とか
「ああ、そういう存在がいるという話ですか」
~~とかね。
イメージの世界だから、それはそれでいいとするわけさ。
そのイメージが現実にあっているか合っていないかは、いつだって決められるからね。そう思えばいいだけ。個人の自由だよ。
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「俺たちを造った存在がいる」
ということをイメージする。
なにか、膨大な、でっかい存在。
目に見えないけどね。
存在する~~と思ってみるんだね。
そういうイメージ世界を心に思い描くと、いいこともあるんだ。
いいことって?
自分が存在する理由を考えることが出来る~~ということ。
「俺って、そもそも何で存在するんだ?」
「私ってそもそも何のために存在してるの?」
人間は、み~んな、そういう疑問を抱いて生きている。
そして、み~んな答えが得られそうにないから、あきらめている。
テレビに出て、偉そうにコメントしてる先生も同じだよ。
みんなわかっている、という顔をしてやってるけどね。
実は、ぼんやり漠然とした、もやもやを心に残しながらやってるのさ。
どうして答えが得られないの?
創造した存在をイメージしないからだ、それを考えないからだよ。
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おうちにテレビがあるよね。
この機械、自分で「自分が何故存在するか」を知ること出来る?
「何のためにこの世に出現したか」知ること出来る?
できないよね。
出来ないで、テレビは、いろんな画面を映している。
一生懸命、働いている。
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でもね。
造った存在をイメージに入れたら?
創った存在って?
人間だよ。
テレビの創造者は人間だろ。
人間は、まず、自分が家で画面を見られる道具を夢見たんだ。
イメージしたんだ。
それを工夫して青写真に設計したんだ。
そして、それに沿って、部品を造って組み立てた。
それがわかると、テレビは、自分の存在目的がわかるようになる。
創った存在をイメージに入れないで、考えているだけだと、そういうことがわからない。
自分が何のために存在するか、存在するようにされたかの答えは永遠に出てこない。
わかるのは、ただ自分が「ある」「存在する」ということだけ。
「俺は、何だか知らないけど、有る~ぅ」だね。
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・・・・だからね、創った存在をイメージに入れるということは、心に希望の光を入れることなんだ。
自分が何のために、何故存在するかの答えを見出す、可能性だね。
~~とにかくこの可能性は現れるんだ。
それが納得できるかどうかは、次の話だ。
それは次に考えればいい。
でもとにかく、あきらめながらもやもやとしていたことに、一つの答えを出す可能性は開けるんだ。
これがどんなに人間の助けになるか。
君たちの助けになるか。
ベイビー、これから、わかってくるぜ!!