聖書の論理では創造主から「出た」霊は、イエスだけではありません。
聖霊もまた、創造主から「出た」霊ということになっています。
これは無数に出ているのですが、皆、同一の働きをします。
だから、「多にして一」「一にして多」という存在です。
ややこしいですが、要するに、聖霊は一つ、とみてもいいわけです。
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聖霊は「聖なる霊」でありまして、文字通り、創造主の「聖(ホーリー)」という属性を持っています。
イエスもまた「聖なる霊」でありまして、その意味では聖霊であります。
なのに、どうしてイエスだけが「子」になるのか?
これも、「考える宗教」として、放っておきがたい問題です。
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鹿嶋は、こう考えます。
イエスも聖なる霊であって、すなわち聖霊と言っていいのだが、いわゆる聖霊と違ったところがある。それは天の王国の相続者とされたことである、と。
聖書にこういう聖句があります。
「創り主は、御子を万物の相続者とし、
また、御子によって世界を造られました」
(ヘブル人への手紙、1章2節)
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ここで御子というのは、イエスをさしています。
そして、「万物」というのは、文字通りのすべての被造物と解して良さそうです。
すると、天国という被造空間も含まれることになるでしょう。
つまり、イエスは天国を相続する存在であって、この点が聖霊とひと味違うわけです。
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この世で相続というのは、本来親のものであったものを、受け継ぐことでしょう。
万物は、本来創り主のものであった。
創り主は、それをイエスに与えた。
この与えたことを、人間の世界の言葉を使って、相続といったのでしょう。
ただし、人間の世界では相続は、通常、親が死ぬことによって実現します。
けれども、創り主は永遠の霊的存在で、死ぬことはありませんので、このあたりはあてはまりません。でも、まあ、このあたりは無視して相続という言葉を使っているのではないでしょうか。
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創り主は死なないから、むしろ「与える」というべき、という意見もあるかもしれません。しかし、それだと今度は、本来自分の持ち物だった「いっせつ」を、合法的に“受け継がせる”というニュアンスが弱くなります。
霊イエスには、万物のすべてを、恣意的ではなく、あらかじめ決まっていたものとして、合法的に受け継がせた、と言いたいのではないでしょうか。
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ともあれ、そういうわけで、イエスはいわゆる聖霊と違って、万物を受け継ぐ存在でもあったと。それ故に「子」ということになると考えられないでしょうか。