「考える宗教」を続けましょうか。
前回、イエスを創り主から出た「生き霊(いきりょう)」と考えてみましたね。
創造主の思い(意識、念)が霊として分離したのだと。
では、一体、創造主(つくりぬし)の意識とはどういうものでしょうか?
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もちろん、創り主といえどもいろんな意識を持たれるでしょう。
喜びもあれば、怒りもある。失望も苦笑もあるかもしれません。
しかし、創造主の場合、それらの意識のベースに「聖(holy)」と称される意識があるのではないかな。
黙示録(4章8節)にこうあります。
「・・・彼ら(天の創主の御座の回りにいた四つの生き物)は、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。
『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。
創造者であられる主、万物の支配者、
昔いまし、常にいまし、後に来られる方』」
聖書を貫いてあるのは、創主のベースにある性格、意識はこの「聖」(ホーリー)であるという思想。 このように鹿嶋にはみえます。
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料理にもいろんな味がありますよね。
甘み、辛み、酸味、こしょう味、ピリ辛・・。
でも、ベースになっている味というのがある。
醤油ベース、ソースベース・・・。
これですね。創り主の意識はみなホーリーベースなわけです。
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聖書では、創り主に対極する存在は悪魔ですね。
この意識ベースは「俗(secular,またはworldly)」です。
我々がこの世に生まれついて持っているのも、このセキュラー(俗)ベースの意識です。
正確に言うと、アダムが創り主の命令に背く前には、そうではなかった。
聖なる意識がベースになっていた。
だが、背いた後には、その霊(意識)がいのちエネルギー100%充電でなくなりましたので、死のエネルギーが何パーセントか生じました。
いのちエネルギーは聖なる意識を発しますが、死のエネルギーは俗なる意識を発するという道理です。混ざると、ベースは俗味になってしまうんでしょうか。とにかく、悪魔と共通したセキュラーベースの味になりました。
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聖という意識は、どう理解したらいいでしょうか。
これはそもそもは天の王国に満ちた意識です。
で、この宇宙(この世)にいる我々には、体験が難しい。
で、わかりにくいのですが、擬似的な体験はあるかもしれません。
朝のすがすがしく、さわやかな空気。
これを深呼吸したときの意識とかいうように。
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反対の、セキュラーな意識は、どうか。
これはもっと自覚が難しいでしょうね。
だって、聖書は我々の意識すべてがこのセキュラーベースだというんですから。
もし世界に、男だけしかいなかったら、男は男というものを特徴的に自覚することは出来なかったでしょう。すると、男という言葉、概念、イメージすら生まれない。
人間という意識はあったとしてもね。
男が男という存在として自分を自覚できるのは、対極的な存在である女が出現してからなんですね。
(だから文化を特徴的に認識しようとする「文化論」は「比較文化論」にしかなりえないんですね)
この女が発生する前の男みないな状態が、この世における人間の意識ベースである「俗」です。だから、俗といわれても、何のことだかわからない。全意識が俗だから。
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~~これが基本です。
でもその上で、何とか特徴的に理解しようと思ったらどうしましょうか。
少なくとも「永遠」という思いが自分の頭に全くない状態でしょうね。
「人間、生きてるうちでっせ」
・・・と、この世の楽しみだけが意識にある状態。
それで、その時々の楽しみを、その時々に追求する状態。
「きれいごと言うたかて、人間しょせん欲でんがな」
「それには、カネがいりまんがな。」
「おんなも、結局はカネですね。政治もカネだ」
~~~ホリエモンの世界だね。
あるいは、新宿歌舞伎町の夜、おカネ払って「のぞきメガネの女」をのぞいているときのギンギラギンな意識とか? 若い人には、こっちの方がよくわかるか・・・。
(だからイエスが「聖」を持ってこの世にきたとき、人々は鮮烈な印象を受けた、という論理になるんだね・・)
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このように、聖、俗の意識がわかるには、困難が多いのですが、例外はあります。
それは、天の王国の意識を体現している霊(聖霊)が、自分の内に入った人です。
これが聖霊のバプテスマです。
くりまんさんは、だから、聖書でいう「聖」が(従ってセキュラーも)感覚的にわかるんでしょうね。
「聖霊を受けたら聖書が突然よくわかるようになった」というよくある証言。この体験も、聖、俗が感覚的にしかとわかるようになったことによるでしょう。
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みなさんも、早く聖霊を受けてください。
「せいしょ議論」のきよ子さん。
もしこのブログ読んでおられたら、それに踏み出してください。
踏み出していいタイミングと思いますよ。
しかし、焦らなくていいです。
人それぞれのペースで進むしかないんですからね。
これが聖書(聖句)主義です。
今回は、この辺で。
(しかし、「考える宗教」は、長くなるなあ・・・)