若者も含めた皆さんへ。
これから少し、「考える宗教」について考えたいと思います。
若者諸君への語りかけの中で、鹿嶋春平太は「これが真理かどうかは、おのおの自分で判断すればいい」といいました。
だけど、実際、この話を初めて聞いた人で、真理だと思った方はいないと思います。
それでいいのです。
こういう一つの考え方を知っている、知識として持っている、ということが大きな力になる。防衛力になりますからね。
とはいえ、もう一つの面「誰も真理だと信じられない」も気になりますね。この面についても少し考えてみましょう。
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真理だと思えないのはなぜでしょうか?
いろいろ「納得できないこと」があるからだと思いますよ。
聖書の世界観の概略の話には、面白いところもあったでしょう。
だけど、いざ「真理と思うか」と問われたら、納得できないことが出てくるんですよね。
たとえば~~
「創造主は全能というのなら、どうしてすべての人間を救わないのか?」
とか
「勝手に造っておいて、救われる人間と救われない人間とが結果的に出るようにするなんて・・・・」
とか
「それでもって、神は愛です、なんて言われて信じてる人の気が知れない」
とかいろんな感慨がわきます。
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以下の事例は本当にあったケースです~~
奥さんがクリスチャンで、幼い子どもを連れて毎週、日曜礼拝に行きます。
旦那さんも家族大事と教会につきあっています。
牧師さんの説教を何度も聞いて、聖書の教えの概略を知ります。
それで、旦那さんの反応はというと~~~
「信じられないし、信じたいという気も起きない」
「救われるものと救われないものが出るのなら、自分だけ救われたいとは思わない」
~~~で、あるときから説教中は爆睡するようになりました。
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これって、いけないことでしょうか?
鹿嶋は、素直な反応だと思います。
健全だと思います。
反省すべきは牧師さんだと思います。
礼拝説教で聖書の概略説明を毎週繰り返すだけではですね。
納得できないものが、毎週残るのが当然でしょう。
それで「みなさん信じてください、信仰もってください」
~~というだけでは、前に進まないんですね。
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聖書という教典は深いものです。
納得できないことがあっても、探求していけば答えが見つかることが多いです。
「もっと納得できる説明になりえないのか」
と聖書を探求する姿勢が鍵です。
そういう態度を牧師さん自身がまず持つことが大切なんですね。
その上でそういう「考える道」を教会に来る人にも示すことです。
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そうしたら、いまご紹介した旦那さんは爆睡するだけではなくなるでしょう。
爆睡するというのはね、自己防衛でもあるのです。
「こんな単純な話を納得していったら、自分の知力は低下するのではないか・・・」
と不安になるのです。
聞かない方がいいと思うから眠るのです。
知性の自己防衛。
鹿嶋はこう思っています。
“丸の内のビジネスマンにとってもかったるくない宗教”が日本にも欲しい、と。
この人たちの知力は高いですよ。
彼らが今の日本教会の礼拝に出たら、多くはやはり爆睡するでしょう。
この人たちにとっても、「かったるくない宗教」が必要なのですね。
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日本の宗教は、単純な理屈を提示して、あとは「信じなさい」とか「信じる、信じないはあなた次第」と繰り返すだけのものでした。
で、聞く方は~~
信じたら「アリガタヤ、アリガタヤ」
信じなければ「ソンナバカナ・・・」
~~いずれかの繰り返し。あとは儀式の繰り返し。
日本人は宗教とはそういうものだと思ってしまっています。
で、日本のキリスト教もそういうふうになってしまいました。
でも、本来はそういうものではなかった。聖書を探求して「考える」宗教でした。
だからこれだけ広く長く続いたんです。
そこでこれから少し「考える宗教」をやってみたいと思います。
くりまんさんも、よろしかったらどうぞ。