鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

40.旧約聖書の比喩表現を解読する集いとしてスタート

2018年05月02日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

では、聖句自由吟味活動の歴史的考察を、迂回たっぷりで始めよう。


様々に迂回するから、話は長目になる。

自由吟味活動の方式は、キリスト教が始まるなかで自然発生している。

そしてそれはドラマチックな出来事の中での生成だ。

 
 

<イエス、エルサレムに留まれと命令>

イエスは十字架刑で殺された三日後に、復活した。

500人以上の人々がその彼を目撃した。

イエスは、教えを追加した後、信じる者たちに「エルサレムに留まっていなさい」と命じて、天に昇っていった。

 
 

<神殿の外にあった大部屋>

200人余の信徒が、マルコの部屋と呼ばれる大部屋に集まっていた。

エルサレムは城壁に囲まれた城塞都市だ。

建設された当時は部族社会で、異部族の襲撃の危険が常にあった。

城壁都市のなかにエルサレムの神殿があり、その外の一定距離を置いたところの建物にマルコの部屋はあった。

彼らは、一般ユダヤ人たちからの襲撃を避けるべく部屋を閉め切っていた。

この時点では、一般人の認識では、イエスは極刑に処せられた罪人であり、弟子たちはその一派と認識されていたからである。

 
 

<轟音と共に驚くべき事態が>


この部屋に驚くべき事態が起きた~。

「突然天から、激しい風が吹いてくるような轟音が鳴り、部屋全体に響き渡った。

次いで、炎のような分かれた舌が現れ、ひとりひとりの上にとどまった。

すると、みなが聖霊に満たされ、聖霊が話させてくださるとおりに語り出した。

そのことばは、語っている本人も理解できない、他国の言葉であった・・・」

~これは『使徒行伝』2章に記録されている。

著者は「ルカの福音書」の著者、ルカである。

 
 

<酒に酔っているのか!>

轟音は神殿にまでとどろいた。

参拝に来ていた人々は、「なにごと!」と建物に駆けつけ部屋に飛び込んだ。

見ると人々はみな、他国の言葉を唄うようにして語っている。

彼らは、驚き惑って、互いに「これはどしたことか」といった。

あるものは「彼らは甘い葡萄酒に酔っているのだ」とあざけった。

 
 
 

<代表者ペテロ、聖句から事態を解説>


すると後に「使徒」とよばれることになる12人の弟子が立ち上がった。

代表者ペテロが口を開いて事態説明の演説を始めた。

彼は預言者ヨエルの書いた『ヨエル書』の聖句を示し、それが実はイエスのことを言っているのだと解き明かした。

ついでダビデの書いた『詩篇』の一節も語って、やはりそれもイエスのことを言っていると解き明かした。

 
 

<『ヨエル書』の聖句>

「使徒行伝」2章を見ればわかることだが、聖書を開かない人もいるだろう。

ここにペテロが引用した「ヨエル書」の聖句を書いておこう~。


・・・・・・・・・・・・

「創造神は言われる。

終わりの日に、私の霊をすべての人に注ぐ。

すると、あなたがたの息子や娘は預言し

青年は幻を見、

老人は夢を見る。

その日、わたしのしもべにも、はしためにも、
私の霊を注ぐ。

すると彼らは預言する・・・」

・・・・・・・・・・・・・

後は省略だ。

『詩篇』の聖句の引用部分は、「使徒行伝」を開いてみられたい。

 
 
 

<参集者の目からうろこが落ちる>

ペテロは、この聖句は「いま目の前に起きていることを言っているのだ」と解き明かした。

参集者の目からうろこが落ちた。

突如目が開け、精神が開け、彼らの知性は躍動した。

人々はこうした躍動体験をもっと欲した。

新しい聖句解読をもっと学びたくて、200余人の弟子たちの群れに加わることを願い、受け入れられた。

新参加者は、その一日だけで、三千人に達したとルカは記録している。

キリスト教会は、こうして、たった一日で立ち上がったのである。

+++

その後も口コミは広がり、新しく加わった教会員は、エルサレムだけでも三万人はいたと推定されている。

五万人くらいに達したとみる人もいる。
 
 
 

<小グループに分けて、聖句解読を始めさせる>


これを受け入れた先輩たちはどうしたか?

イエスに直接教えを受けた弟子を使徒という。

十二人いたので、十二使徒とも呼ばれている。

この事件が起きた時には、イスカリオテのユダ(イエスを裏切ったとして有名)という弟子がいなくなっていて、使徒は十一人になったが、まもなく補充され12使徒に戻った。

イエスがいたときには、使徒とイエスをさらに外から取り巻く弟子も70人ほどいた。

彼らみんなは、共にいて宣教旅行をしていた。

他にも信じる人がいて、マルコの部屋には200余人が集まっていた。

+++

使徒たちは参集者を数人前後の小グループに分けた。

リーダーを一人選ばせ、その内の一人の家で聖書の解読を自由に議論させた。

この時点では、聖書は今でいう「旧約聖書」しかない。

参加者はその聖句がどのようにしてイエスのことを言っているか、の解き明かしを切望した。

だから、自由吟味は実際には自由な「イエス解釈」の探究だったことになる。


 
 
<旧約聖書はオレのことを述べた本だ!>
 
  
実はイエスも生前、旧約聖書について「私のことを証言する本」と断言していた。(ヨハネによる福音書、5章39節)

だけど、旧約聖書にはイエスという名は一度も出てきてない。

端的に言えば、イエスの「イ」の字もでてこない。

それがイエスのことを言っているとなれば、それは、何か他のものをもってきてそれに喩えて「喩え」で言っていることになる。

かくして聖句解読は、(イエスに関する)比喩の解読となった。

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比喩解釈はとてもいい「頭の体操」になる。

解読できたときに快感が伴い、精神が活性化する。

聖句の場合さらに、本質に達する解読には「しるしと不思議」がともなった。

これがまた、興奮を与え、精神を高揚させた。




<初代教会は聖句解読小グループの連携体>


先輩たちは、各家庭(スモールグループ)を廻って、質問に答え、ヒントを与えたりして、解読の助力をした。

とりわけ使徒たちは、長老と呼ばれ、頼りにされた。

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これが人類史最初のキリスト教会だ。

それは後に「初代教会」と呼ばれるようになる。

初代教会は、リーダーの連携を介してつながるスモールグループの連携体だった。

この小グループの集いは、後に「家の教会」とも呼ばれるようになる。

人々はそこで小さな礼拝も行った。

ともかく、こうして世界史に於いてキリスト教会は始まった。

それは「イエスを比喩で語っていると思われる、旧約聖書の聖句」を解読する人々の集いであった。

今回は、ここまでにしておこう。







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