では、聖句自由吟味活動の歴史的考察を、迂回たっぷりで始めよう。
様々に迂回するから、話は長目になる。
自由吟味活動の方式は、キリスト教が始まるなかで自然発生している。
そしてそれはドラマチックな出来事の中での生成だ。
<イエス、エルサレムに留まれと命令>
イエスは十字架刑で殺された三日後に、復活した。
500人以上の人々がその彼を目撃した。
イエスは、教えを追加した後、信じる者たちに「エルサレムに留まっていなさい」と命じて、天に昇っていった。
<神殿の外にあった大部屋>
200人余の信徒が、マルコの部屋と呼ばれる大部屋に集まっていた。
エルサレムは城壁に囲まれた城塞都市だ。
建設された当時は部族社会で、異部族の襲撃の危険が常にあった。
城壁都市のなかにエルサレムの神殿があり、その外の一定距離を置いたところの建物にマルコの部屋はあった。
彼らは、一般ユダヤ人たちからの襲撃を避けるべく部屋を閉め切っていた。
この時点では、一般人の認識では、イエスは極刑に処せられた罪人であり、弟子たちはその一派と認識されていたからである。
<轟音と共に驚くべき事態が>
この部屋に驚くべき事態が起きた~。
「突然天から、激しい風が吹いてくるような轟音が鳴り、部屋全体に響き渡った。
次いで、炎のような分かれた舌が現れ、ひとりひとりの上にとどまった。
すると、みなが聖霊に満たされ、聖霊が話させてくださるとおりに語り出した。
そのことばは、語っている本人も理解できない、他国の言葉であった・・・」
~これは『使徒行伝』2章に記録されている。
著者は「ルカの福音書」の著者、ルカである。
<酒に酔っているのか!>
轟音は神殿にまでとどろいた。
参拝に来ていた人々は、「なにごと!」と建物に駆けつけ部屋に飛び込んだ。
見ると人々はみな、他国の言葉を唄うようにして語っている。
彼らは、驚き惑って、互いに「これはどしたことか」といった。
あるものは「彼らは甘い葡萄酒に酔っているのだ」とあざけった。
<代表者ペテロ、聖句から事態を解説>
すると後に「使徒」とよばれることになる12人の弟子が立ち上がった。
代表者ペテロが口を開いて事態説明の演説を始めた。
彼は預言者ヨエルの書いた『ヨエル書』の聖句を示し、それが実はイエスのことを言っているのだと解き明かした。
ついでダビデの書いた『詩篇』の一節も語って、やはりそれもイエスのことを言っていると解き明かした。
<『ヨエル書』の聖句>
「使徒行伝」2章を見ればわかることだが、聖書を開かない人もいるだろう。
ここにペテロが引用した「ヨエル書」の聖句を書いておこう~。
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「創造神は言われる。
終わりの日に、私の霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたがたの息子や娘は預言し
青年は幻を見、
老人は夢を見る。
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、
私の霊を注ぐ。
すると彼らは預言する・・・」
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後は省略だ。
『詩篇』の聖句の引用部分は、「使徒行伝」を開いてみられたい。
<参集者の目からうろこが落ちる>
ペテロは、この聖句は「いま目の前に起きていることを言っているのだ」と解き明かした。
参集者の目からうろこが落ちた。
突如目が開け、精神が開け、彼らの知性は躍動した。
人々はこうした躍動体験をもっと欲した。
新しい聖句解読をもっと学びたくて、200余人の弟子たちの群れに加わることを願い、受け入れられた。
新参加者は、その一日だけで、三千人に達したとルカは記録している。
キリスト教会は、こうして、たった一日で立ち上がったのである。
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その後も口コミは広がり、新しく加わった教会員は、エルサレムだけでも三万人はいたと推定されている。
五万人くらいに達したとみる人もいる。
<小グループに分けて、聖句解読を始めさせる>
これを受け入れた先輩たちはどうしたか?
イエスに直接教えを受けた弟子を使徒という。
十二人いたので、十二使徒とも呼ばれている。
この事件が起きた時には、イスカリオテのユダ(イエスを裏切ったとして有名)という弟子がいなくなっていて、使徒は十一人になったが、まもなく補充され12使徒に戻った。
イエスがいたときには、使徒とイエスをさらに外から取り巻く弟子も70人ほどいた。
彼らみんなは、共にいて宣教旅行をしていた。
他にも信じる人がいて、マルコの部屋には200余人が集まっていた。
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使徒たちは参集者を数人前後の小グループに分けた。
リーダーを一人選ばせ、その内の一人の家で聖書の解読を自由に議論させた。
この時点では、聖書は今でいう「旧約聖書」しかない。
参加者はその聖句がどのようにしてイエスのことを言っているか、の解き明かしを切望した。
だから、自由吟味は実際には自由な「イエス解釈」の探究だったことになる。
<旧約聖書はオレのことを述べた本だ!>
実はイエスも生前、旧約聖書について「私のことを証言する本」と断言していた。(ヨハネによる福音書、5章39節)
だけど、旧約聖書にはイエスという名は一度も出てきてない。
端的に言えば、イエスの「イ」の字もでてこない。
それがイエスのことを言っているとなれば、それは、何か他のものをもってきてそれに喩えて「喩え」で言っていることになる。
かくして聖句解読は、(イエスに関する)比喩の解読となった。
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比喩解釈はとてもいい「頭の体操」になる。
解読できたときに快感が伴い、精神が活性化する。
聖句の場合さらに、本質に達する解読には「しるしと不思議」がともなった。
これがまた、興奮を与え、精神を高揚させた。
<初代教会は聖句解読小グループの連携体>
先輩たちは、各家庭(スモールグループ)を廻って、質問に答え、ヒントを与えたりして、解読の助力をした。
とりわけ使徒たちは、長老と呼ばれ、頼りにされた。
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これが人類史最初のキリスト教会だ。
それは後に「初代教会」と呼ばれるようになる。
初代教会は、リーダーの連携を介してつながるスモールグループの連携体だった。
この小グループの集いは、後に「家の教会」とも呼ばれるようになる。
人々はそこで小さな礼拝も行った。
ともかく、こうして世界史に於いてキリスト教会は始まった。
それは「イエスを比喩で語っていると思われる、旧約聖書の聖句」を解読する人々の集いであった。
今回は、ここまでにしておこう。