鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

46 「精神の自由」をフル発動させる道

2018年05月15日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

 

前回、日本の土壌(当面の)からは、聖句自由吟味活動が萌え出るのは困難だ~と述べた。


だが、「ああそうか」で終わってはおられない。

人間が与えられた精神の自由をフルに発揮して生きることと、この活動方式とは密接に関わっているのだ。

 
今回は、それを述べよう。

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これまで繰り返してきたように、人間は「見えない影響者(神)」を思わないでは生きて行かれない生きものだ。

その「神様」が「よくわからない」では心底に恐れを持った状態での人生になる。

影響者は悪い影響を及ぼしてくるかも知れないからだ。

そして、心底に恐れがあったのでは、精神は自由な飛翔をしない。
 

 

<在物神宗教の場合>

在物神の場合から考えよう。

人は物質の中に存在すると期待する神を「明確に知りたい」。

だが、知り得ない。

認知の中身は感慨だから。

言葉、理念なしだから、認知は漠然としたままとなる。

そのままでは、神への恐れが残存し、恐れを心底に抱いた人生を続けることになる。

 
 

<神との仲介者が登場する>

すると「神を感知している」という姿勢の人間が登場してくる。

これはもうほとんど自然な成り行きだ。

この人物は、神と人々の間に入って「神様を仲介してあげましょう」という仲介者になる。

この人は、「神を知っている」という姿勢をとる。

だが、かならずしもその姿勢のようでは、実際にはない人も多い。

そして、そういう仲介者は、自分の利己的な目的のために、人々を動かそうとする性向を持っている。

仲介者は、そういう危険と共に登場するのだ。

 
 
 

<創造神宗教にも>

そういう仲介者は、創造神宗教においても登場する。

創造神宗教では、神については言葉での説明がある。

それを記した教典がある。

聖書がそれだ。

だが、この書物は多量な内容を持っている。

だから人間にはそのままではやはり、神は漠然なのだ。

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その時、やはり仲介者は出現しうる。

「私は正しい解釈を悟っているよ。それは究極絶対の真理だよ」という姿勢の人物は登場しうるのだ。

具体的には、教団の高僧にそれが出ることが多い。

 
 

<自称仲介者が出る限り>

結局、仲介者の姿勢をとる人間が出る限り、「神を知る活動」は安全ではないのだ。

キリスト教も同じだ。

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では、仲介者が登場しない「神知り活動」はあるのか?

我々は経験を振り返って「そんなものあるはずがない」と思う。

が、理屈としてはありうる。

それが聖句自由吟味方式の活動だ。

これは「教典(聖書)と人間の間に仲介者を差し挟まない」と自覚的に~原則として~明示した方式だ。

 
 
 

<まず理屈として記憶>

残念ながら、いま、われわれ国民のほとんどは、その観察素材、経験素材をもたない。

だから、具体的なイメージが伴った理解が非常に難しい。

けれども、この活動の中に、精神の自由をフル活動させる道を、筋道としては展望することは出来る。

そいう「頭による」認識、「知識としてだけの」認識は出来る。

それを知識として記憶する。

記憶していれば、いつか、その素材に出会ったとき、合点がいくだろう。

まずはとにかく記憶することだ。

今回は、ここまでにしておこう。





 

コメント
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