さらに廻り道を続けよう。
迂回話は、目に見える五感経験の世界の話が多くなる。
信仰感覚を求めている読者には違和感があるかも知れないね。
たしかに、聖書が述べる世界は、つまるところは霊的世界だ。
五感経験の世界でなく、神秘の世界だ。
けれども、その前に五感経験の世界で理解できそうなことは、出来るだけやっておくのがいい。
<五感認識を進めても神秘は残る>
五感理解をすすめても、神秘領域はなくならない。
その残ったところをフェイス(信仰、信頼)でもって霊感認識するのだ。
すると、聖書解読はシャープになり、より一層感性を高めてくれるようになることが多いのだよ。
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逆に、聖書の世界のことだと言って、いきなり神秘的な認識に入ると、霊感認識に不純物が混入してきやすくなる。
不純物とは五感経験界からの認識物で、これが知らず知らずのうちに意識に侵入してくるのだ。
前もって、出来るだけ五感認識をしておくことには、その混じりものを避ける効果があるんだよ。
<最後の晩餐の会場>
事例で示してみよう。
前回、過越の食事の会場をイエスが弟子に知らせる場面があった~。
「町に入ると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家にまでついて行きなさい・・・」といって示していたよね。
これなど、イエスが先を見通す透視力を発揮して、これから起きることを弟子に示した、と解することも出来るだろう。
この透視力は神秘的な力だ。
<エルサレム入城は大トピック>
だけど、そういう要素を入れないで、五感経験の要素だけで理解することも出来る。
たとえばこんな具合に~
この主人はすでに久しくイエスの支援者だった。
イエス一行が来たという情報は、瞬く間に彼の耳に入った。
当時、一行の動きは、最大の社会ニュースだったからね。
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一行がエルサレムに入城した。
このときイエスはロバの子に乗っての華やかな入城だ。
群衆は手に手にシュロの木の枝をもって、「ホザナ、ホザナ!(救ってください、救ってください!)と大歓迎。
今なら、テレビのワイドショーでのトップ記事だ。
耳に入らないわけがない。
<使用人を差し向ける>
そこで主人は使用人を、一休みしているイエスの元に差し向けた。
この男は伝達役の使用人で、すでに弟子たちにも馴染みになっている。
彼は弟子を介せず、直接イエスに接近できた。
フリーパスだ。
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彼はイエスの耳元にそっとささやいた。
(主人が過越の食事の場を準備しています・・・)~と。
そして音もなく去って行った。
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・・・こういう場面が事前にあったと推定することも十分出来るのだ。
この推察は神秘的な要素はゼロで、宗教的な話を好む人には面白くない。
だが、こちらの解釈を採ると、他の、神秘としか考えようがないイエスの行為が、より輪郭くっきりと浮かび上がってくるのだよ。
<神秘を否定せず、神秘主義を避ける>
誤解しないように。
わたしは神秘を否定しているのではない。
神秘認識がなくなったら、それは科学になってしまう。
神秘要素は大事だ。
だが神秘「主義」はさけなければならない。
それはキリスト教に、安全でない要素を持ち込むしね。
今回はここまでにしよう。