鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

48.「おびえの自縄自縛」からの解放

2018年05月18日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

今回は、聖句自由吟味活動の基礎にある暗黙の大前提、について話しておこう。

この思想は自由吟味者の血肉と化している。

ゆえに、敢えて口に出して言われない。

だから「暗黙の」なのだ。

 
 

<究極絶対の解釈は人には知り得ない>

それは聖書の解読での、「究極絶対の解釈」についての思想だ。

聖句吟味者は、そういう解釈は存在すると信じている。

だが同時に、人間の限られた生涯のなかでそれに到達するのは不可能だと確信している。

これは自由吟味を実践し続けての体験的確信だ。

だから、彼らにとっては、どの解読も究極の真理ではない、のだ。

 
 

<到達した日々の解読が真理>

 
そういう彼らに外部から質問する者もいる~。

では諸君は真理なしで生きていくのか~と。

これに対する自由吟味者の答えはこうだ~

「膨大な内容を持つ聖句に対面し、個々人が吟味し解読したものが、その人のその時点での真理(真の知識)だ」

「有限な人生を日々生きる人間個々人にとって、それ以上に頼れる知識が他にあるとは思えない」

~と。

 
 

<自由精神を守る鍵>

なんか、一見、いい加減な考え方にも見えるね。

だが、これが実は「人間の精神の自由を守る鍵」なのだ。

なぜなら~

人間は自然なままでは、「究極の真理は存在する」という思いを漠然と持っている。

その漠然さが、「自分の解釈は真理ではないのでは?・・・」という恐れ、おびえを知らず知らずに意識の中に作り出す。

これを打破するのは、「人間には究極の解釈は知り得ない」という思想を「明確に、自覚的に」持つこと以外にない。

でないと、人は何か絶対的そうな思想にすがりつこうとする心的素地をもってしまうことになる。

またときには、そのすがりついた思想で、反射的に人を裁いたりもすることになる。

 
 

<おびえの自縄自縛>

「聖書だけ」からもう少しカメラを引いてみると~

歴史を通して、日本人の心底には「真理は誰かが知っているのでは」という漠然とした思いが流れている。

浄土仏教もその論法だ。

親鸞の『正信偈(しょうしんげ)』には、「高僧説(お経の中では、コウソウセイと読むことが多い)というフレーズが時々出てくる。

色んな教えを述べた後、それは「高僧が述べたから正しいのだよ」と決め手のようにして出てくる。

この状態では、日本人の心底から「おびえ」はなくならない。

自由吟味活動のもつ、暗黙の真理観だけが、日本人を「おびえの自縄自縛(自分の考えで自分を縛って身動きとれなくなること)から」解き放つのだよ。

今回はここまでにしておこう。








 
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