前回、古代エルサレム神殿には、我々からは想像出来ない程多数の人々が常時的に参拝に来ていた~ことを眺めてみた。
もちろん、在物神感覚で参拝に来ていた人もたくさんいだだろう。
当時は貧富の差が大きく、一般庶民の多くは貧しく文盲だった。
<「聖書読み」が大量にいた>
そうしたなかで、聖書(旧約)を読み考える生活を送る参拝者も多数いたのだ。
彼らは創造神に関する理念をもっていた。
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周辺諸国からも「聖書読み」の参拝者はたくさん来た。
『使徒行伝』には、エチオピアの宦官(高官)が、イエス十二使徒の一人、ピリポに『イザヤ書』の聖句の解読を示してもらう場面が記録されている。
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ギリシャにも沢山いた。
パロという人は後に異邦人宣教に大活躍する。
「新約聖書」に収録されている手紙を沢山書いている。
彼も、ギリシャに生まれて生活していたユダヤ人だった(これを、グリークジューという)。
ピリピ、テサロニケ、ベレヤといった町が聖書に出てくる。
これらはマケドニア国の諸都市であった。
こうした地に住む比較的豊かな階層の人々は、ほとんどが「聖書(旧約聖書)読み」だった。
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当時、これらの周辺諸国に於いても、聖書は唯一の「教養書」だったのである。
だから所得の高い人々は、ほとんどこれを読んだ。
それらの人々もまた、聖句自由吟味活動を芽生えさせる土壌を豊かに形成していたのだ。
<日本の土壌>
この視野から日本の状況を眺めてみよう。
まず、我々の国では、宗教と言えばほとんどが在物神宗教だ。
物質(空や建物の中の空間も物質の一つ)を拝んで、神秘的な感慨を得るのみ。
神とはどんな存在か、の「理念」など持ったことない。
<武士道>
そうしたなかで、人間の生き方に関する理念はある。
人は生きる営みの中で、それを作り出していく。
日本の場合、それは「武士道」だった。
我が国の場合、これといった人生理念は他になかった。
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武士道は「主君のために死ぬのが最高の人生」という行動規範だ。
行動倫理。
他に人生無常という思想もあるが、これは無常観という存在哲学の根から生えた人間哲学だ。
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こういう心理舞台に、いきなり「創造神という神がいる」といった思想をもってきても入らない。
ましてや、創造神と人との関係、とか、創造神と天使との関係とか、の理屈を持ってきても受け入れは困難だ。
<「愛」も行動規範のみに留まる>
たまたま教会に出向いて「愛が大切」という聖書の持つ価値を学ぶ人はいるだろう。
全体から見たら少数だがいる。
だが、それも「あなたは愛の行為をしましたか?!」といった行動規範論にとどまってしまう。
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日本の心理土壌は、聖句自由吟味活動とはあまりに縁遠い。
まず、そうした事実を知ることが肝心なのだ。
今回は、ここまでにしよう。