もう一つ、廻り道。
イエスを支援した富者の心理を現実的に考えておこう。
「現実的」とは「五感経験世界の要素で」という意味だ。
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<マルクス思想が生んだ富者への嫌悪感>
現代人は富者に対してあまり好意的な感情を抱いていない。
それにはマルクス思想の影響が大きい。
マルクスは「資本論」で、資本家の貪欲に着目した。
彼らが一般労働者からの搾取分でもって富を蓄積している面を明かるみに出した。
この経済分析は、19世紀以降、一世を風靡した。
これによって、「富者は、悪いことをして豊かになった人間」、とのイメージを我々は強く抱いているのだ。
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<富者と運営者感覚>
だが実際のところ~
富者というのは~豊かになる前から~自分の日常生活世界を超えた範囲の事象に、多くの意識を注いでいる人が多い。
その結果、社会組織とその運営にも関心を注ぐ。
その面の情報も集まる。
それを活かして、組織体を創って運営者となっていることが多い。
富は、その結果であるのが一般的なのだ。
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<運営者の視点からも見る>
余談だ~
富んで恵まれた人を、「妬み、羨望」の感情百パーセントで非難する人々がこの世には多い。
この非難者は、富者が自らの組織の運営に注力している面を全く見ていない。
その結果、運営者が運営上の都合で、やむなく実施できない事柄を、「ただ悪行として」非難する。
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ある意味、気楽な人生だ。
だがそういう日々を送る人は、決して富者になれない。
最初から貧しい庶民の生涯を送ることを自らに宿命づけているようなものだ。
キリスト教会にやってくる人にも、こういう人がいる。
彼らはやたら「隣人愛」を強調して、教会や教会員にほどこしを「たかる」こともある。
社会を運営者の面からも見るかどうかは、人生を左右する重要な要因なのである。
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<イエスの聖書解説を敬愛>
話を戻すよ~
イエスの時代、富者の多くは聖書(旧約聖書)を読んでいた。
そして、国家宗教であるユダヤ教の高僧たちの、儀式の多い宗教活動や、聖書説明に納得できない気持ちを抱いていた。
そこに革命的な聖書解読をイエスは示した。
彼らは、それが真実をついていると直感した。
そこで、イエスが好きになり、敬愛し、支援をした。
そういう支援動機も、現実にはあったはずだ。
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<孔子の洞察>
もう一つは、いま少し利己的な動機心理だ。
孔子の「論語」に~
「父母は唯其の疾を之れ憂う」との言葉がある。
「孝とはどうすることか」との質問を受けての応答で~
~父母は何にもまして、ただただ子供の病気のみを心配しているのだから、身体を大切にして健康であることが孝行の要
~という意味だ。
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かといって貧しい庶民の親は、生存のための食物入手が日々の大仕事だ。
子どもの病気に常時関心を注いでいることはできない。
だが富者は、衣食住の心配がない。
その分、子どもの健康に常時的な意識を注ぎ、心配をするのだ。
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イエスは、この彼らの日々の不安を大きく和らげてくれる存在だった。
なにせ、病は百発百中で治してくれる。
手遅れで死んだ子も、哀れんで生き返らせてくれる。
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昔から、霊能者というのはいつの時代にもいる。
彼らも霊力でもって子どもの病を癒やした。
だが、常時ではない。
たまに治ることもあるが、治らないことも多い。
対して、イエスの霊力は桁違いだった。
哀れむものを百パーセント治してしまうのだ。
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富者は、イエスに「頼みやすい状況」をつくっておきたいとの願いももっただろう。
そういう多少利己的な動機も、支援の際には全く介入しないことはないだろう。
これって責められるものだけではないんだよね。
「あいだみつを」さんだって、言ってるよ。
「人間だもの・・・」って。
関西のおばはんなら「あ~ら、お近づきになっておきたいわぁ・・・」
とチャッカリいうところだ。
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<詰まるところは「創造神の意図」によるが>
もちろん、これらの事態は、詰まるところは「創造神の意図」によって起きている、と信仰者は思うだろう。
だが、それについていきなり最初から、「神様の計画」などといってもってくると、
神秘の領域の認識に、物質的経済的な要素が混入してくる。
結果的に、信仰が妄信的になる。
パウロの「信仰に知性を」という思想も、そういう事態を避けよという警告であろう。
今回は、ここまでにしておこう。
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