~~笹身(sasami)さんのコメントに触発されて、昔のことを少し書いてみますね。
気持ちの流れるままに。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/niwatori.gif)
<次は好きなことを・・>
「次は好きなこと書いて下さい」と編集のSさんに言われたとき、一瞬狐につままれたような気分になりました。
最初の本『聖書の論理が世界を動かす』の品動きがよくなかったら、あり得ない言葉とは頭ではわかりましたが、それが現実になると不思議な気分に襲われました。
私は、「誰もが」で書いたようなことを、日本の出版社が本にしてくれることは、もっとズ~と先のことだろうと漠然と思っていました。あの本で私がトライしたのは「日本への聖句主義の導入」だったのですから。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/note.gif)
日本に、キリスト教は入っています。でも、まだ教理主義のキリスト教だけが入った段階なのです。戦国時代の昔、ザビエルがカトリック教団の教えを導入しました。だが、カトリックは教理主義の本家本元のような教団で、彼が入れたのもまさにそれでした。
明治維新になって、ヘボン博士がプロテスタントのキリスト教を導入しました。だが、彼はニューヨークの長老派教会から派遣された宣教師で、この教派もまた筋金入りの教理主義教派でした。
少し遅れて、バプティスト派も宣教師を送ってきましたが、その人々も、敢えて言えば「無自覚な聖句主義者」でした。魚は水の外に出されて、初めて自分が水というものの中で育ってきたと知る、といいます。彼等は、聖句主義のやり方で育ってきてはいるのですが、それを一つの方法論として自覚することはなく、ただ、それをしてきたという人でした(今も、状況はあまり変わっておりません)。だから、日本人に聖句主義の行き方を教えることはほとんど出来なかったのです。
そういう人々が、先行的に出来上がった教理主義の土壌の日本で活動するのですから、結局教理主義と大差ないようなものになっていきました。執筆当時もそのままでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/presents.gif)
そういうところに、聖句主義の行き方を導入しようとしても、キリスト教関係の出版社だって、著者が何を言ってるか、理解できないです。ましてや、新潮社のようなエスタブリッシュされた一般出版会社が、こんな原稿見たら、相手にしてもらえない、と思う外ありませんでした。
最初の作の『聖書の論理が・・』は、世界を主導している西欧社会は、実は聖書の論理で動いているのですよ、と示したものでした。これなら日本人にもわかる人が出るでしょうと。実際、企業の人とか、政府官庁の方々に受け入れられました。その方面から講演の依頼も来ました。
しかし、聖句主義の導入なんて、実業界の人も、政府の人も、まず興味がないわけです。キリスト教の考え方が日本にどういう影響を及ぼすかは知りたくても、キリスト教運動の内容がどう分かれ、どうなってかなんて、どうでもいいんですね。こういうキリスト教があるよとか、聖書の扱い方があるよと書いたって日本人には無理だ。こういうのを本にしてくれるのは、まだまだ、ズ~と先だろうなぁ、と思っていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyob_hat.gif)
そこにSさんの、上記の言葉。私は、こんなことを書きたいのですが・・・と、恐る恐る小さな声で口に出してみました。
「いいですよ」
sさんの唇がそう動いたとき、私は、この世では人間の予測をこえたことが起きるのも有りなのかなぁ・・とこみ上げるものを感じました。
(続きます)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cocktail2.gif)
気持ちの流れるままに。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/niwatori.gif)
<次は好きなことを・・>
「次は好きなこと書いて下さい」と編集のSさんに言われたとき、一瞬狐につままれたような気分になりました。
最初の本『聖書の論理が世界を動かす』の品動きがよくなかったら、あり得ない言葉とは頭ではわかりましたが、それが現実になると不思議な気分に襲われました。
私は、「誰もが」で書いたようなことを、日本の出版社が本にしてくれることは、もっとズ~と先のことだろうと漠然と思っていました。あの本で私がトライしたのは「日本への聖句主義の導入」だったのですから。
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日本に、キリスト教は入っています。でも、まだ教理主義のキリスト教だけが入った段階なのです。戦国時代の昔、ザビエルがカトリック教団の教えを導入しました。だが、カトリックは教理主義の本家本元のような教団で、彼が入れたのもまさにそれでした。
明治維新になって、ヘボン博士がプロテスタントのキリスト教を導入しました。だが、彼はニューヨークの長老派教会から派遣された宣教師で、この教派もまた筋金入りの教理主義教派でした。
少し遅れて、バプティスト派も宣教師を送ってきましたが、その人々も、敢えて言えば「無自覚な聖句主義者」でした。魚は水の外に出されて、初めて自分が水というものの中で育ってきたと知る、といいます。彼等は、聖句主義のやり方で育ってきてはいるのですが、それを一つの方法論として自覚することはなく、ただ、それをしてきたという人でした(今も、状況はあまり変わっておりません)。だから、日本人に聖句主義の行き方を教えることはほとんど出来なかったのです。
そういう人々が、先行的に出来上がった教理主義の土壌の日本で活動するのですから、結局教理主義と大差ないようなものになっていきました。執筆当時もそのままでした。
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そういうところに、聖句主義の行き方を導入しようとしても、キリスト教関係の出版社だって、著者が何を言ってるか、理解できないです。ましてや、新潮社のようなエスタブリッシュされた一般出版会社が、こんな原稿見たら、相手にしてもらえない、と思う外ありませんでした。
最初の作の『聖書の論理が・・』は、世界を主導している西欧社会は、実は聖書の論理で動いているのですよ、と示したものでした。これなら日本人にもわかる人が出るでしょうと。実際、企業の人とか、政府官庁の方々に受け入れられました。その方面から講演の依頼も来ました。
しかし、聖句主義の導入なんて、実業界の人も、政府の人も、まず興味がないわけです。キリスト教の考え方が日本にどういう影響を及ぼすかは知りたくても、キリスト教運動の内容がどう分かれ、どうなってかなんて、どうでもいいんですね。こういうキリスト教があるよとか、聖書の扱い方があるよと書いたって日本人には無理だ。こういうのを本にしてくれるのは、まだまだ、ズ~と先だろうなぁ、と思っていました。
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そこにSさんの、上記の言葉。私は、こんなことを書きたいのですが・・・と、恐る恐る小さな声で口に出してみました。
「いいですよ」
sさんの唇がそう動いたとき、私は、この世では人間の予測をこえたことが起きるのも有りなのかなぁ・・とこみ上げるものを感じました。
(続きます)
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この本を初めて読んだとき、私は自分の前に大きな扉が開かれるのを感じました。
あの時の奇跡をみるような、燃え立つような気持ちを、今でもはっきりと覚えています。うまく言葉にできませんが・・・
きっとたくさんの人が同じ思いを体験したことと思います。
続きを楽しみにしております。