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ヨハネ伝の3章の終盤は、著者ヨハネの心情が最もストレートに出ている章です。
出ていると言うより、あふれ出してしまった、といった方がいいかもしれません。
ニコデモは、国家宗教であるユダヤ教の僧侶です。
ヨハネたち庶民からしたら、圧倒的な国家権威を身につけている堂々たる先生です。
その先生が、トンチンカンな質問を繰り返す。イエスは、しかし、根気よく応じます。
だが、その言葉は論理的には飛躍の多いものでした。イエスはいつも、そういう風に応じるのです。
その頃、ヨハネはすでに一定の教えを受けています。
イエスの答えていることの意味がわかるのです。
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彼は、弟子の中でも、群を抜いてイエスの教えを理解していました。優等生です。
イエスはそういう彼を、常に自らの片側においていました。イエスの鞄持ち。
彼は塾頭です。
若いヨハネです。できれば、側から言葉を補充して、ニコでもさんにわからせてあげたい。
その思いでイライラしたのではないでしょうか。
でも、ニコデモ僧侶は、若造ヨハネなど眼中にありません。完全無視。ああ、焦るなぁ・・・。
・・・ヨハネは、そのときの状況を思い出しながら
このヨハネ伝を書いているのではないでしょうか。
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ーー(もう何十年も昔のことだ・・・)だが、書いていると、自分の気持ちもそのときに戻ってしまうのです。
あのときの焦りも。そして、いまなら、あのとき叫びたかった声も、出せるのです。
人間は、みな、火の池に滅び落ちていくべき状況にあったのですよ、ニコデモさん。しかし・・・、
「創主は、そのひとり子を送って死なせるほどに、この世を愛してくださったのですよ、ニコデモさん。
それは、御子を信じる者が、ひとりも滅びないで、永遠のいのちを得るためなんですよ、ニコデモさん」(16節)
「この御子に直接出会えたのに受け入れなかった人、そういう人の頭の上には、
創造主の怒りが留まるのは当然ではないでしょうか、ニコデモさん」(36節)
「そういう人は最後の審判で裁かれることになる。いや、裁かれる資格もなく、すでに裁かれている。
拒否したその時点で、もう裁きは終わっている。そうに決まっているんだ!」(18節)
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春平太は、これらの言葉に、創造主とイエスに対するヨハネの熱い思いがあふれだしている様を見ます。
深い愛の思いが胸に留めきれなくなって噴火している。
ヨハネは、こう叫んでいるのではないでしょうか。
「わたしは、気がついたら、この世に生きていた。望んで生まれてきたのでもないのに生きていた。
わたしは、どこから来たのだ。どうしてこの世に存在するのだ。
そして、これからどこに行くのだ。なんのために、どう生きればいいのだ・・・」
ーーーヨハネは、そういう問い、人生の根底に流れる問いを、
まともに追求し続ける人だったのではないでしょうか。
書物も読んだ。そして、いろんな人を訊ねた・・・。
ユダヤ教の僧侶に始まって、いろんな人に会い、教えを学んだ。
バプテスマのヨハネは、最初の師匠ではなかったのではないでしょうか。
以前にも、たくさんの師匠に近づき、教えに耳を傾けてきたのではないかと思われます。
ーーー「ある人は、偽りの人だった。
また、ある人は、はじめは本物そうに見えたけど、詰まるところは金儲けのためにやっていた。
頭はいいけれども、自分の栄華のためにやっている人もいた。
利己心はないけれども、教えが、今ひとつ核心に至っていない人もいた。」
ーーー「しかし、今、わたしはまことの方に出会った!
この方の教えは、紛れも無き真理だ」
ーーー「わたしの胸には、もはや、さらに他の人を訊ねようという意向が全く湧いてこない。
日々核心に触れる喜びに満たされている。わたしは、まことの方に出会ったのだ!」
“まことの方に出会った・・・”
第3章でヨハネが叫びたかったのは、それでした。
凝縮すれば、そう言いたかったのです。
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