鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol. 40『ひとり子を賜わったほどに・・・(3章)』

2005年01月12日 | ヨハネ伝解読
また、前に進みましょう。
 「イエスが十字架につけられたのは、その彼が創主のつかわした救い主だと信じるものが、すべて永遠のいのちを得られるためである」

 ・・・ここまで伝え記したヨハネは、突然、自らの思いを語り始めてしまいます。あたかも押さえに押さえてきたものが、胸から吹き出すかのように。彼は書きはじめます。

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 「創主は、そのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(16節)

 この聖句は、多くのクリスチャンに喜ばれている文章です。この言葉に感激し、クリスチャンになった人も少なくありません。だからとても有名でもあります。

 彼らはこれこそ聖書の教えの神髄を示している聖句と受け取っているのです。日本の神学者さんには、「聖書の中の聖書」と言う人もいます。聖書の神髄は「神は愛なり(God is Love)」だというのです。

 しかし、ここは冷静な姿勢も必要になるところです。我々人間には、感激しやすい文章であるだけに。「神は愛です」といっても、聖書の論理では、創主は全身これ愛の固まりというわけでもないのです。100%愛というわけではない。

 たしかに、続いてヨハネが書く、次の文はそういう気持ちをさらに一層助長してくれはします。

 「創主が御子を世に使わされたのは、世を裁くためではない。御子によって、この世が救われるためである」(17節)

 この16,17節をあわせ読んで、そうでしょう「神は愛」であることに疑いの余地はないでしょうーーーと。

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 けれども、聖書全体の論理はそう単純ではありませんよ。こういう聖句もあります。

 「それから、イエスご自身が生ける者と死んだ者との審判者として、創主に定められた方であることを、人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、創主は私たちにお命じになったのです」(使徒行伝、10章42節)

 これはヨハネと共にイエスの両脇を固めた角さん、ペテロが行った説教の一部です。コルネリオという信仰深い人の家に集まっていた多くの人々に、彼はこのメッセージを与えているのです。

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 また、助さんヨハネ自身が延々と与えられた幻を記録した「黙示録」にも、こういう記述があります。

 「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。・・・(中略)・・・死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、裁かれた」(黙示録20章12節)

 これはいわゆる「最後の審判」の光景です。そしてこの御座に座っているのはイエス以外にありません。イエスは最後の最後には裁き主ともなることになっているのです。

 だが、それは、この世が火で焼かれて消滅した後の話です。イエスが「この世に来たのは」裁く「ため」ではなく救う「ため」である、とヨハネは17章で述べているのです。

 「ため」というのは「この世に来た」、主たる「意図」を言っています。33年という限られた生涯の期間についてだけのことです。もっと長期の全体の中では、イエスは、やはり裁き主にもなるというのが、聖書の思想なのですね。
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