ここで自己紹介をしておこう。
筆者は日本の大学で経済学の研究と教育で生計を立ててきた。30代の前半に助教授になった頃、キリスト教と聖書を平行して探求し始めた。
それには動機がある。
日本敗戦後の昭和20年代初頭に筆者は愛知県の片田舎で4~5歳になっていた。
当時の大人たちは敗戦のショックなど吹き飛ばすように輝いていた。
「もう徴兵にとられることはない!」「空腹と貧しさはたくさんだ。これからは豊かになるぞ!」
これらの気風に満ちていた。
その豊かさは進駐軍とよばれていた米兵が体現していた。彼らは超豊かなだけでなく、明るく明晰だった。
ガキだった筆者は「これはキリスト教による」と感じた。その直感はなぜかいつまでも消えずに残った。
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院生時代に日本の教会をのぞいてみた。その都度、「キリスト教がこんなものであるはずがない」と思った。
就職先の明治学院はミッションスクール(ヘボン式ローマ字のヘボン先生の創設)だったので、米国から派遣された宣教師教授がいた。
バン・ワイクというその人物に教員ラウンジ(談話休憩室)でぶしつけに言ってみた。
「オレはキリスト教を知りたい」
彼は「グッドボーイ、グッドボーイ」といって手ほどきをはじめてくれた。
以来経済学に平行して探求を重ね、聖書の紹介本も幾冊か書いた。『聖書の論理が世界を動かす』『誰もが聖書を読むために』『神とゴッドはどう違うか』(いずれも新潮選書)はその一部だ。
賞賛もあった。
だが筆者には物足りなさ感覚が残った。
その原因が、根底の「理解の聖書学」志向にあると気づいた。
聖書の本質は、生きる上で必須なものを与えるところにあるのではないか。
その「必須なもの」がなかなか見つからなかった。
このほど「永続確信」だとの見当がついたので、探求を開始したのである。
(続きます)
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