「真理」という日本語がある。
その意味は「変わらざる知識」だ。
この理念は、もともと日本にはなかった。
幕末から明治になって、英語のトルース (truth) が邦訳されて出来た語なのだ。
<万物を創造した方の知識は変わらない>
「万物を創造した創造神」ならば「自分が創造した(被造物)のすべて」を知っているはず
~前回筆者はそう述べた。
全存在を知っていれば、もうそれ以上観察範囲を広げる必要が無い。
だからそこから出る知識は「修正する必要がなく」「変わらざる知識」となる。
これは、創造主の理念があって初めて生じる概念なのだ。
<ヘボン先生の苦心>
日本で邦訳聖書を初めてつくったヘボン先生は、このトルースに相当する日本語をつくるのに苦心された。
結局、「真(まこと)」という、昔からある語に、
「理(筋道)」という語を組み合わせて、
「真理」と邦訳された。
<「科学」の源泉なのに>
真理の理念は「科学」という思想の源にもなっている。
科学では、わざわざ「仮説」という語を使う。
「新事実が見つかったら修正する必要があるば知識」をいう。
(だから「仮に設定した説」なのだ)
この概念は真理の理念があって初めて心に生まれる思想だ。
科学が、自らを「真理に向けての永遠の仮説修正の営み」としているのは、それ故だ。
<基本知識省略の習性>
ところが日本人には、そういう基本的な思想活動を軽視する習性がある。
西欧でできあがった科学知識も、それだけを摘み取って、成果をチャッカリ享受してきている。
この習性が、統一教会などに苦もなく取り込まれる、という結果をも産んできている。
聖書本来の思想は、聖書を掲げる新思想を吟味するための唯一の手がかりだ。
これを知る努力を省いたら、なすがままにされるしかないのだ。
(続きます)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます