前回の件で、もうひとつ追加することがあります。
聖句は自然発生的に実感・体感が伴うものではない、ということを知らない教会人が日本には多いのです。
教会で、福音を学んだらすぐに「信じます」といわないのは罪である、と思う。
実感をもてなかったら罰が当たると思う。それで「私は信じてます」と簡単に言う。
聖書に出てくる「偽善」という言葉は、それを指しています。
英語ではhypocrisyですが、これを偽善と訳すのは少し特殊な色づけをしすぎな感があります。
漢字の意味は「善人であると偽る」「心の底から善をなしていないのに心の底からであると偽る」といった意味でしょう。
この言葉の背景には「クリスチャンは信じると善をなす」という前提がおかれています。
しかし、「善をなす」というのは福音への信頼を抱いた結果生じる行為の一局面でありまして、
他にも「死へのおそれが少なくなる」とか「(世的に)偉い人を恐れなくなる」とか
「知性が活性化する」とか「決断力が増す」とか色々あるのです。
なのに「善をなす」という側面だけをとりだすということがそもそも特殊な色づけでしょう。
そしてそういう訳語が造られるというのは、「クリスチャンになると善をなす」、とか、
「なすべき」とかいった印象が日本人には強い、ということでしょう。
鹿嶋は、訳語は「誤認」の方が適切なように思います。「偽認」というのも一案ですが、「偽」は「いつわる」という意味です。
なにも「偽っている」とまでいうことないんではないか。
ただ、福音を学んだら、それにすぐに実感を持たねばならないと、本人が「誤って認識」していることがベースにあるにすぎない。
でもその誤りを自覚しないであたかも「実感が伴っている」かのごとく言動せざるを得なくなった。
それが結果的に「偽っている」ように映じることもある、ということではないか、と思います。
<誤認が自己脅迫観念を生む>
この福音と実感に関する誤認は、日本人伝道の大きな障害になっています。
福音を学んだから、とか、教会に通っているからといって、ただちにそれに実感をもてないと罪である、と考えてしまう。
すると、それは自己強迫観念を生みます。日本の牧師さんも教会人もその傾向があります。
外部者はニッポンクリスチャンにそれを見て、接触を避けようとするのです。
あの人たちのようになりたくない、と感じる。そして、福音を語りかけてもとにかく逃げようとします。
<笑えない話>
アメリカの日本人教会で、こんな話をある信徒さんから聞いたことがあります。
あるクリスチャンの夫婦で、夫が若くして急死しました。妻は悲しく苦しいです。
これに対して、牧師さんや教会の人々は、「喜ばなきゃ駄目よ、喜びなさい」と強く勧めた。
「全て主の計らいであり、主は最善のことをなされますから、ご主人の死もそうですよ。感謝し、喜びなさい」といった。
「あなたは聖書の言葉を信じないのか」と。
で、その妻もそれに努め、泣かないで一生懸命喜んでいた。そうしたらその奥さん、精神異常をきたしてしまったそうです。
で、その話を伝えてくれた女性信徒さんは「肉親が死んだりして悲しいときには思いっきり泣かなきゃ駄目よ、危険だわよ」
と警告してくれました。
その奥さんは精神が分裂してしまったのでしょう。聖句の論理に自分の感情、実感が伴っていなかった。
なのに、そういう風に分離した状態を自分の心に押し込んだのですから、精神が分裂を起こしてしまったわけです。
喜んでいても分裂を起こさない人もいます。その人は、聖句に実感・体感が伴うところまで行っているのです。
で、その場合は、悲劇の中にあっても心に喜び(joy)が満ちてくるのです。
でも、そこまで行っていない人に聖句を示して、「夫が死んだことを喜ぶことを強要」してはいけません。
鹿嶋はその話を聞いて、日本の牧師さんには、誤認を自覚できない人がいるんだなあ、と痛感しました。
そういう人は、往々にして、ヨハネ伝20章26~7節の聖句を持ち出して信徒を叱ります。
そこには弟子のトマスに語りかけたイエスの言葉が記されています。
トマスは、イエスが復活したという兄弟弟子たちの証言を「信じられない」と言っています。
「わたしは、その手(イエスの手)に釘あとを見、私の指をその釘あとに差し入れ、
また、私の手をその脇に差し入れてみなければ、決して信じない」(ヨハネ20:25)と。
ところがイエスは、今度はトマスの前にも現れます。
イエスは彼の上記の言葉を踏まえて、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と言っています。
この聖句を引き合いに出して、「見なくても信じなさい! キィ~ッ」と牧師さんは信徒に迫るのです。
「トマスになるな!」とかいったりして・・・。
実はこの聖句には、別の解釈も成り立つのですが、そんなことは見えないのでしょう。
とにかく、この聖句で信徒を追い詰めるのです。これ結構多いですよ。
教会ツアーをされたら体験されるでしょう。日本の福音伝道には、障害が多いですね。
あれからみんな各々変化・成長しておられるでしょうね。
masaさん、じゅんこさん、Sabiaさん、kiyokoさん、お元気でしょうね。
鹿嶋も変化しました。
今さらの感がありますけど、確認させてください。「私は、永久に人を導くことは無いと思います。」と語られたのは、じゅんこさんが、人を導こうとする意図、もくろみを持って福音を語ることはしないという意味ですね。その結果、伝えられた方が導かれるかどうかは、まさに「神のみぞ知る」のであって、みこころにおまかせしているという趣旨であると受けとってよろしいでしょうか。
その仮定のもとに話を続けますね。
もしそうだとすると、これは、じゅんこさんが自戒の念をこめて自分に言い聞かせていることばになります。決意といってもいいでしょうか。ところが、それをそのまま文章にしてしまうと、読む側には趣旨が伝わらない恐れがあるのです。どういうことかと言うと、自分に言い聞かせている場合には、福音を周囲に伝えずにはいられない自分の生きざま(性分)というものが、自分の中に自明の理として存在しています。しかし、書かれたものだけを接点にしてつながっている者には、そういう前提を自分で補うことを期待できないからなのです。じゅんこさんの活動を目の当りにされている人なら可能かもしれませんが。 それゆえ、下手をすると「私は、今後、伝道活動は一切しません」という、全く正反対の意味で読まれてしまい、春平太先生らが慌てることになります。
誤解を生まない表現となると、たとえば、次のようになるでしょうか。
「私は、神の素晴らしさを伝えずにはいられない性分ではありますが、その際、人を導こうという意図は決して持たないように、日頃から心がけています」
ガラにもなく、文章教室みたいになってしまいました。じゅんこさん、偉そうなことを書いてごめんなさい。
初めに戻って、偽善について説かれているところも、私には興味深かったです。私の考える偽善者とは、決して悪だくみをするわけではない。むしろ、一生懸命に善人であろうとする人です。良くない思いが湧き上がったら打ち消すべく努力も欠かしません。それでも、人間性の本質への洞察が浅いためか、どこまでも表層的というか、周囲から見るととってつけた感が否めないのです。それが、クリスチャン=偽善者のイメージですね。
・・・あと、お願いします。
~~で、話はポーンと飛んで、「子供よりその母親」の件。伝道というのはやってみるものです。あれはまずかった、これはまずかった、の連続です。それが自分の福音(聖書解釈も含めて)の不十分だった点を教えてくれる唯一の鏡です。
物的環境に恵まれて育った人間の福音は、わがまま、という持病を持っています。それに気づき、直せるのは伝道を「やってみる」という手段だけによります。旧約聖書の聖句を読んで反省会したって、なおらんのです。単なる気休め。
一人でもいいから、つかまえてやってみる。うまくいかない。でも練習になる。気づきになる。つかまった主婦こそ不運だが、それはしょうがないんだよね。社会だから。人間、群れて住んでるんだから。
もう屁理屈という時間の浪費はやめて、つかまえて伝えてみる。料理で釣ってみる。ヴィジョンが・・、なんて屁理屈いってないで。それしなかったら、今度はボクが家から放り出してやるから・・・。
文章造ってリターンで確定するとき、「リターンをおしたかなあ・・・」と思ってもう一度押すと、書き込みになってしまうようです。もし消して欲しいものありましたら、ここに伝えてください。私には
消すことが出来るようになっています。
>私は30代半ばです。一人で教会に行ってます。
~~だったら、日曜日は電車も空いているし、のんびり都心に行かれてもいいのではないでしょうか。
スモールグループのバイブルスタディをしていて、音楽活動も活発で、アメリカ人が牧していて明るいのは、東京バプテスト教会なんてのがあります。渋谷から近くの代官山駅と思います。
~~しかし、聖書が深く読めるようになるには、聖霊のバプティスマを受けることがかなりな鍵になります。スモールグループはしてないと思うけど、聖霊を受けるのを助けてくれるのは、東京中央教会があります。高田馬場から歩いて行かれます。
~~近場でバイブルスタディが出来るのでしたら、近所のバプティスト教会をネットでさがして行かれたら大体やってると思います。その点、首都圏は便利なものですね。
じゅんこさんご助言ありがとうございます。
鹿嶋先生、Sabiaさん、私は相変わらず抜けまくりの粗忽者のようです(笑)
牧師のメッセージを一緒に聞いていても、そこにいる人全てが同じように聞いているわけではないんですよね。
メッセージの前によく「心を開いて御言葉をまっすぐ受け取れるよう整えてください」と祈りますけど、あの祈りは大事だなあと思います。
そのとき、今の自分の状態を素直に主に告白するといいかなと思います。「不信感があります」と。
その日の聖書箇所を何度も何度も唱えて「みことばだけをください」と祈るのもいいと思います。
私も自分の教会で牧師のメッセージに不信感を抱いてしまったときよく祈りました。
聖書勉強会のような教会は、危険だと思っています。それは私の苦い経験からです。聖書を勉強するという時、どうしても自分の頭で理解する、また無意識のうちに全部理解できると思ってしまいます。その内、神の声が聞こえなくなってしまいます。その時感じる寂しさをMasaさんには、味わって欲しくありません。
聖書は哲学書ではありません。また、知的レベルの高い人だけが分かるものでもありません。イエスはたとえを多く使っていますが、それは机上の空論ではなく、生活の中から分かることを望まれているのではないでしょうか?
スモールグループも本来は、神と個人の関係が先にあって、一人ひとりが神からお聞きした言葉を交換していくうちに、より神が大きく深く見えてくるためにはいいものだと思います。勿論中心には神がおられ、人は神のしもべです。
しかし、正しくないスモールグループもあります。もしそこに、信仰の上下・賜物の比較・知識のあるなし・社会的地位の優劣・学歴の上下など‥が少しでも入ったとします。とたんに自分を人より優れたものと思ってしまう人や、その逆に、自己卑下する人が出始まります。いつのまにか特定の人の言葉が権威あるもののように持ち上げられ、人が中心になってしまいます。
教会は人の集まりですから完璧なところを探すことは無理だと思います。聖書に書かれている教会もそうでした。でも、教会に集まるように聖書には書いてあります。イエスが中心におられない時は、それを神に助けを求めるように書いてあります。祈る時、どの人にも聖霊は助けてくれるとも書いてあります。Masaさんと一緒にお祈りいたします。
最高のカウンセラーはイエス・キリストです。人にではなく、イエスに困ったことをご相談したら如何でしょう?イエスのくださる答えに間違いはありません。また、教会の頭もイエス・キリストです。だから安心して集まっていいよ、とおっしゃってくださいます。牧師を通して語る神の声を聞く機会から遠ざからないようにと願います。
人の声に真っ直ぐ耳を傾けられるMasaさんのような方が、一番神の声を透き通ったままで聞くことができると思います。Masaさんとご一緒に心を合わせます。どうか、父なる神に、イエスの名のもとに祈ってください。聖霊が助けてくれますから、必ず大丈夫です。神は約束を反古になさるお方ではありません。
~~中央線沿線の情報はあまり強くないのですが、いい教会なら1時間以上かかってもいいですか?
~~ご年齢は?**代前半とか後半とかでお知らせください。
~~お一人でいかれますか? ご家族でですか?
以上、差し支えなければお教えください。
これまでから推察するところでは、Masaさんは教会に通われるべきに思います。
お役に立ったようであれば、何よりです。
kiyokoさん、おひさしぶりです。私も鹿嶋先生ではありませんが、あれっ? あのkiyokoさんなのかな?と思いました(笑)。着実に歩んでおられる様子に感服いたします。
お住まいはどのあたりですか?
首都圏でしたら、どのあたりの、最寄りの駅はどのあたりかがわかれば、私も適切な教会を調べること出来ますけどね。
鹿嶋がご本人を尋ねたのは、従来のきよ子さんからあまりに変化されたので、わからなかったからでもあります。
実に、聖霊を受けると、かくも読み方・福音理解が深くなるのですね。聖書に書いてあることは、やはり本当だ、ときよ子さんのケースで確認しているような次第です。
もうきよ子さんも体験できるようになっておられると思いますが、聖霊を受けた人とそうでない人とは発言を読むと容易に感知できるのですね。きよ子さんが可愛がっておられた、関西の大学院生さんね。彼は「受けた」と公言していましたが、その発言は「受けてない」人のものでした。
それにしても、主婦という難しい立場にありながら、あきらめずによく求め続けられましたね。鹿嶋はじゅんこさんやmasaさんにも、それを期待しています。万一じゅんこさんが求められたら、同じ主婦ですから、よろしく導いてくださいますことを。ともあれ、今の状態で、コメントを加えてくださると、私にもいい刺激になります。
そういう疑問に答えるべく書いたのが『キリスト教が面白いほどわかる本』でした。私の本を読まれる方なのに、これは読まれていないのでしょうか。
あんな漫画チックな対話形式で書いてはいますけれど、あれはmasaさんのような疑問を出す日本人の引退ビジネスマンの方をたくさんアメリカで拝見して、早く書かなければ・・・とせかされて、やっと作ったものです。お持ちでしたら、もう一度読み返してください。
ここでのmasaさんへの質問への答えは、きちんと答えようとすると、あれだけの厚さの本になるような深く広いものです。
~そこなんです。そもそも聖書はイエス様を証する本であって、イエス様を証する本であると思うのです。ですから専門的に聖書を勉強した牧師先生は聖書を通してイエス様に対する信仰を強めることに専心すべきなのではないか、と思うのです。
信徒は教会に植えられるべきであるといいますが、イエス様がどのような教会に信徒が植えられるべきとお考えなのか私には分からないのです。どこでもいいとお考えなのでしょうか?免罪符の時代に、教会に植えられるべきとは思われてなかったと思います。
現代でもさまざまな教派があります。すべて正解なのでしょうか?どこでも良いのでしたら、こんなにも教派が増えるのはおかしいです。
だからこそ、教会にいく意義を考える必要があると思うのです。
教会ですが、教会がなければ自分勝手な方向に行ってしまう、その先には自分が神になってしまうカルト化の危険性があると思うぐらいです。教会を否定しているのではなく、律法が神の愛の上にある傾向や、世俗の価値観をみ言葉の上におく傾向を憂うています。人の集まる教会は、きっと世界中探しても完璧なところは無いと思います。でも「ある人のように集まることをやめたりしないで、、、」と聖書にあります。完璧でない人の集まりでも、中心にイエスがおられる時、心を一つにして祈ることができ、目標に向かって走ることができます。そんな主にある一致のある教会をこよなく愛する者です。
じゅんこさんもmasaさんも今後ともよろしくお願いします。
具体的には、
①片道1時間かかる
②同年代の同姓が少ない
③POWER FOR LIVINGでは近所の教会に行くことを勧めている
④聖句の解き明かしというよりも、信徒としての心構えについてのメッセージに感じる
といったところです。
先ほどの2通の投稿はせいしょ議論のkiyokoです(笑)
どうもご無沙汰ばかりでスミマセン!
あるいはSabiaさんのブログのお客様の方ですか?
別人だったら、簡単に自己紹介をお願いします。
って、二人一緒に扱わない方がいいと思います。
>私は最近、このままでいいのかな?と思っております。
~~もう少し、内容を具体的に示していただかないと、わかりません。
>教会に礼拝に行くと、恍惚状態というか、見るからに心から賛美している人を見かけます。
~~その教会に通い続けられることをおすすめします。
ヨハネ20:27についてですが、イエスさまは決してできない無茶を言うお方ではないです。
トマスは肉のイエスさまに直接触れさせてもらい「信じる者になりなさい」という御言葉によって信じる者へと変えていただきました。
トマスのようになってはならないなんてとんでもない!
「信じることが出来ないものです。トマスのように御霊によってイエスさまに直接触れさせてください。あなたの御言葉によって信じる者へと変えてください」と祈りたいですね。
私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである(マタ18:19)」
とあるように、同じ信仰を持つ者が共にみことばを開き、祈るとき主の御業を共に目の当たりにすることができ、お互いが友の受けた恵みの証人となることが出来ます。
私の場合、三人の祈りの友が与えられていて、それを実感する事が出来るのですが、教会全体でそうなっていければ素晴らしい創造主の栄光の反射体となって世を照らしていけるのでしょうね。
~~このまだ「疑いがある」というのは、文字通りまだ「実感が伴ってこない」ということだと思います。
>信じることを選択すれば良い
~~でも信じることを「選択する」というのは、後で必ず実感を与えるよ、という「イエスの約束を信頼して聖句を抱く」ということでしょう。
この「選択する」という言葉はまだ説明不十分ですね。日本人はこれだと、選択したんだから「実感あるように振る舞わなければならない」「キィ~ッ」となる恐れが十分なんですね。
日本では、聖書での信仰という言葉の意味、心理構造を改めて解説しなおす必要がありますね。
私の知っている笑えない話です。主日礼拝の前日、牧師の妹さんが突然交通事故でなくなられました。その牧師は悲しみのあまり、メッセージができなくなりました。すると、教会員は、先生の信仰を責め始めました。その牧師はその経験をまだクリスチャンでない私に話し、「私の信仰なんてそんなものですよ」と自嘲気味におっしゃいました。その時私は、その牧師のような信仰の弱い(?)クリスチャンになりたいと思いました。
聖書では、喜怒哀楽そのものを罪とは言っていないのに、哀しむことと同様に怒りも抑えられている信徒がいます。そこには自由などないのですが、不思議なことに中にいらっしゃる方はそれを敬虔と信じていらっしゃる。普通の人なら、マゾヒズムを愛する集団を敬遠するのは当然なのですが・・・?
でも、本来は、神を中心にして、自由で慈愛に満ち、神の時を待ちのぞむところが教会だと思います。信仰を人と比べたり、みことばを使って人が人を裁いたりすることなく、人と神との関係だけを求める人の集まりが教会であって欲しいと祈っています。