「世界には唯一の創造主が存在する」というゴッドリーな存在論は、
人間の心に容易に自然発生することのないものだ、
という明日香石舞台での悟りから、色んなことを考えてきました。
これはもしかしたら、聖句全体に通じる特性かもしれません。
つまり、聖書に書いてあることはみなゴッドリーな世界観の中でのことです。
するとこれらのことも多かれ少なかれ、直ちに実感が伴うというわけには
いかないものかもしれないと考えられるのですね。
鹿嶋は、イエス最大のプレゼント(この世に生きている人間への)は「永続確信」だと思っています。
だが、もしかしたらこの永続思想も自然発生的には実感がわかないものではないのでは・・と思えます。
人間は肉体しか目に見えませんからね。
その状態で生まれ育ってきておりますと、やはり「人間は死んでおしまい」という言葉の方が
実感が沢山伴うのではないでしょうか、自然なままでしたら・・・。
でも、何かの力で「永続する」という方が本当だ、と実感できたら、すばらしいプレゼントを手にすることが出来ますよ。
たとえば、「寂しがり屋」の度合いが急減いたします。
寂しがり屋の人って多いですよ。
亡くなった美空ひばりさんは中村メイ子さんと親友だったそうです。
ひばりさんの家が近所にあって夜更けまで語り合っていて、
メイ子さんがトイレに行って出てくると、ひばりさんトイレの出口で立っている。
そのままメイ子さんが家に帰ってしまわないようにと、よくそうしたそうです。
鹿嶋もとても寂しがり屋の男性を知っています。
そういう人は、いつも人恋しくて、とても愛情深い傾向がありますが、彼もそうです。
友達が自分のマンションに来るとすごく喜んでもてなし、仲間が家族のようになっています。
そういういい面もあるのでしょうが、どうして人一倍寂しがり屋なのでしょうか。
鹿嶋は、そういう人は、普通の人より「人間死んでおしまい(消滅する)」という実感を
強く持っているからではないかと思います。
だから、生きている友に対しても、「この人ともいつか会えなくなる」という気持ちを強く持つ。
それで人一倍寂しいのではないでしょうか。
ところが「人間死んでおしまいではない、永続する」という実感が強いとどうなるか。
生きている友人と「会えなくなる」と感じる恐怖が薄くなります。
それだけではない。すでに死んだ家族、友人たちにも、「彼らは自分に再会すべく存在している」
という感覚を持つことが出来ます。両面から寂しさが急減するんですね。
これはすごいプレゼントですよ。生きている今、与えられるプレゼントです。
<心霊科学は利用するもの>
聖書には「人間は永続するぞ」と直接言う聖句はないと思われます。
でも、全編がそれを前提とした論理で出来ています。だからこの言葉、思想に実感がもてたらいいですよね。
その実感を与える決定的な存在が聖霊、というのも聖書の示すところですけれども、
なかなかそうはいかない段階ではどうしたらいいか。
心霊科学(スピリチュアリズム)の研究成果を読むのがその有力な手段だと鹿嶋は思っています。
心霊科学の果実は、そのように使えばいい。
聖句に実感を与える一要素として位置づけて使ったらいいのです。
で、聖句に適合しない結論などがあったら、それはそのままでは採用はしないようにしたらいいのです。
聖書に最終的な信頼を置くというのはそういうことで、そのスタンスなら心霊科学の成果も有益なのですね。
このブログで、鹿嶋がこの科学の知識を援用したことがありました。
そうしたらフリーズしちゃった人がいたんだよね。
で、「それは悪魔が与える偽りの幻である可能性がある」という。
その可能性もあるでしょう。可能性だからね。
でも、そうであるかどうかの最終判定基準を聖句においていたらいいんです。
それでもって、心霊科学の知識は、聖句に実感を増す道具として使います。だったら有益ですよ。
それも怖いんで、「いや~鹿嶋先生、冷や冷やして読んでましたよ」とご心配のコメントくださった方がいたよね。
お気持ちはありがたいのですが、そこまで見えない存在からの信号に疑いを持つのだったら、
それは論理的には聖句にも及んでしまうことを知らねばならない。
預言者たちに与えられてきたメッセージは、もしかしたら、何か他の霊的存在から与えられた幻ではないのか、とね。
そんなこと、人間には詰まるところはわからないんだよね。
だけど何にも信頼を置けないのでは、不安きわまりないですよね。
信頼を置く一つはなければならない。鹿嶋はそれを聖句においているわけです。
そうしたらその信頼は時とともに多くの実感を伴うものになってきた。
で、これを最終的基盤にして、恐れずに色んな現象を解釈しているわけです。
その説明力も、時と共に広く大きくなってきていて、失望させられることがない
(最近東京で連続的に起きたバラバラ事件も説明範囲です。そういう風に意識を持って行かれる状況が聖書的に説明付くのです)。
これ無理して言ってるんでなく、科学的実感としてそう思っています。自然体。
で、話を戻すと、「人間は永続する」という聖書の思想に実感を増すのに
心霊科学の実験結果が役立つならば、使った方がいいよ、ということです
(鹿嶋はそれを『キリスト教のことが面白いほどわかる本』で試みています)。
そうしたら、ますます寂しがらずに、消滅におびえること少なく今のこの世を送ることが出来ると思うよ。
タイトルは、[The Language of God] 著者は、 Francis S.Collins。サブタイトルは、A Scientist Presents Evidence for Beliefという本があります。この本には、進化論は、科学的に説明できる、と書かれています。中間的な生物の化石等が見つからないから進化論は説明できないという考えに対しては、寧ろ化石のように残っている状態を特別と考えた方が自然だというのです。DNAが進化するのは科学的に説明できる、そう著者はいいます。ところが、説明できないものが二つある。一つは、始めのDNAはどうしてできたか?もう一つは、何故、人にだけSpiritがあるのか?という問題です。
これを持ち出したのは、このことを周りの(アメリカ人の)クリスチャンに話すと、皆がヒステリックになって、「あなたはクリスチャンか?神を信じているのか?聖書に書かれていることを何だと思っているのか?」などと矢継ぎ早に質問が飛んできます。これに対し夫婦で対応するのが難しいぐらいです。(多分この反応は、日本人のクリスチャンに話しても同じだと想像いたします。)
そして、私は思うのです。聖書に書いてあることは全て真実なら、科学に対しても謙虚に探求していく先には、必ず聖書の真実がある!と。どうして、進化論VS創造論だったり、科学VS神だったりするのか?このような議論はおかしい!と思うのです。
聖書は、BC4000年ごろ書かれたものだから、地球の歴史は6000年だとするクリスチャンは多いです。6日で世界を造ったという聖書の箇所も議論のあるところでしょう。そんなことを考えていたら、聖書は、人のSpiritsについて書かれた書物でPhysicalなことについて書かれたものではないのではないか?という風に考えるようになってきました。
科学は、聖句に実感を増す道具として使うことに躊躇する理由は全くない、寧ろ春平太さんがおっしゃるように有益だと思います。聖書は真理で正しいのですから、もっとクリスチャンは、堂々としていればいい。また、どんなアプローチにもおどおどしないで正面から探求したらいい!・・・そう思います。
分からないことが天に行ってから「そうだったんだ!」って分かる時を想像しただけでワクワクしてしまいます。ああ、本当に爽快な気分です。一主婦では表現できないことを、春平太さんのような知識人が書いてくださるのですから。私は、数少ない日本人主婦をどうにかして捜してスモールグループをすることにいたしましょう。感謝!!!
この意見に対する見解は「誰もが聖書を読むために」に詳しく書かれています。
で、英語ではスピリチュアリズムといいます。Sabiaさんの「スピリティズム」は、もしかしたらこの誤訳かもしれません。
なお、鹿嶋が主に参照する本は、『迷える霊との対話』および『ブルーアイランド』という訳本です。どちらもハート出版から出されています。
~~確か、サー・アイザック・ニュートン(万有引力の法則の発見者)もそのようなことを言っていたように記憶しています。
貴重な知識です。ありがとうございます。
>唯物論に対抗するものは、広い意味ですべて心霊科学にあたると、彼は考えていたようです。
~~とてもフランス的、大陸的な思考で面白いですね。スピリチュアリズムは英米発祥で、あくまでも事例経験的、実験的です。ロック、ヒュームの認識論の系譜に立ったものという感じです。
”スピリチュアル”という表現の元、様々な見解、
意見が存在する中で、アラン・カルデックの確立
したスピリティズムの教義とは、イエス・キリスト
の教えそのものです。
父なる神に仕えるため、私たちは皆永遠の命を授かり
霊としての完成を目指しているのだ、という考え方
です。道徳的進歩こそが私たちにとって重要である
としています。そして、イエス・キリストを私たち
の生きるための模範として位置づけています。
福音書を読むと、再生(リインカーネイション)まで
がイエスによって明確に示されています。