聖句自由吟味者の小グループでは、同意できる解釈が多く見出される。
各々その恩恵を受けて、自己の解読を発展させる。
だが、その先にすすむと、互いに個々人の見解を尊重しつつ議論する。
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グループ吟味会においても、リーダーは、各人が細部においては自分の世界観、人生観を抱いた状態で吟味会を解散する。
彼は会を閉じるに当たって、結論めいたことは何もいわない。
<科学者は普遍的な理論を追求する>
科学者の探求は、現実世界に広く適用できる、普遍的な仮説を制作し社会に役立つことをゴールとする。
彼らは研究成果によって社会から報酬を与えられる。
<自由吟味者は生きる知恵を探めようとする>
自由吟味者は、聖句から掘り出した知恵を、生きる自分の日々の生活に活かすことを目指す。
解読成果が自分個人の生活をより確信深いものにしてくれることが喜びだ。
<到達した日々の解読がその人の真理>
彼らは、聖句の微妙な意味合いをも、細部にわたってマニア的に探求する。
筆者はサザンバプテスト教会で、会員に聞いてみたことがある。
「”これは真理だ” という理論でなくても判断の基準、生きる道具になるかのか」、と。
彼らは応えた~
「聖句を、個々人が吟味してその日に得た解読」、それが「当人のその時点での真理(真の知識)」だ。
有限な人生を日々生きる人間個々人にとって、「これ以上に頼れる知識はありえない」~と。
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彼らの解読は、誰にも通用する絶対の真理ではない。
だが、それは、自己の経験も動員して、日々深化する動態的な知識だった。
そして筆者の観察では、それは教理主義教会で、牧師や教団指導者に与えられる教理知識より、遙かに、深い。
この行き方は「知識の個人主義」の極とでもいえるかもしれない。
(続きます)
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