前回の続きです。
人間が抱くその神イメージには、2種類があります。
<宿(在)物神>
一つは宿物神(しゅくぶつしん)ないしは在物神(ざいぶつしん)です。
「物」質のなかに「宿」っているとイメージする「神」ですね。
わたくしの造語ですが、そう難しくない言葉でしょう。
たとえば人は山を見て、あるいは山中を歩いていて巨大な樹木に遭遇して神聖な感じに打たれます。そのとき山や巨木の中に「見えない影響者」が宿っていると感じています。
あるいは木や石に刻んだ彫像などの中にも、人は神イメージを抱きます。
墓石もそうですね。
先祖の霊が宿っていると思うから、花を飾って、お線香を焚いて、手を合わせるのですね。
ただし、「宿っている」はもう少し一般的には「存在している」いうこともできます。
こちらは少し抽象的になりますが、この場合は在物神となります。
宿物神と在物神、当分は、この両方をつかっていくことにしましょう。
<(万物の)創造神>
人が抱くもう一つの神イメージは、「自分以外のすべての存在」を創った「神のイメージ」です。
この場合、物質は被造物です。
またその中に宿っているとイメージされる神々は、「被造霊」となります。
また「被造物」の語はより広く「両者を総称した意味」でつかうこともあります。
複雑なようですが、実際には前後の文脈をみるとどちらの意味で使ってるかが、割合容易にわかります。
<宿(在)物神は自然の心情>
在物神の神イメージは、人の心に自然発生するものです。
人間は五感認識の能力を与えられてはいますが、目に見えないものを認識する能力を与えられていません。
そこで、人はまず先に物質を認識します。
その上で、その中に「見えない影響者」がいると想像します。
こうした精神作業は、心の中でごく自然に進行します。
つまり、宿物神イメージは人の心に自然発生するのです。
<創造神は自然の心情にない神>
創造神イメージの方はどうも自然発生しないようです。
「そうかなあ、それを喚起する物質の認知(イメージ)もなにか人間の心にできあがるんでないの?」という思いも浮かぶかも知れません。
だが、人が行う物質の認知は、五感を通してのものです。
五感とは、五感覚とも言い、知覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚です。
そしてその五感を通して認知される物質は、個々別々の具体的なものとしてしかなりえません。
リンゴでいえば「あのりんご、このリンゴ」というように、ですね。
「全ての物質」というような(一般的な)認識は、モノを見ても心に自然に形成される可能性は少ないです。
ましてや、霊も含めた「存在すべて(万物)」というイメージが、心に自然に形成されることはほとんどないでしょう。
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また一歩下がって、もし形成されたとしても、その全てを「創造し、あらしめた」存在というイメージがひとの心に自然発生する可能性はまずない。
人類史に於いても、そういう事象は起きていませんしね。
(続きます)
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