今日は、神イメージを抱くときの心理を考えてみよう。
少し理屈っぽいよ。
<感性と理性>
人には感性と理性が与えられている。
感性とは、ものごとに直接対面し、それを直感的に認識する能力だ。
理性は、意識の中にある内容を整理し、筋道を与えたり推理する能力だ。
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ただし理性は、物質を直感して得られる認識内容に対してだけでなく、空想したイメージを対象としても働く。
だから理性とは広く、心に浮かんだものを整理したり、推論したりする能力といっていい。
<在物神イメージは感慨>
在物神をイメージするとき、人間の心で働く能力は感性だ。
森の中を歩いていて、森の冷気の中で巨大な樹木に対面したとき、われわれは、なにか神秘的なものを「感じ」る。
「ジーンとくる感情」、と言ったらいいかな。
その感じを「感慨」ともいう。
感性が働いて、神イメージという感慨が「ジーン」とやってくるのだ。
<創造神イメージは理念>
他方、創造神イメージには「ジーンとくる実感」は、はじめは何もない。
そんな何もないところに、外から言葉でポーンと与えられるイメージだからだ。
言葉は理念で出来ている。
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理念の「念」は「深い思い」といったらいいかな。
普通よりも深く思うとき「念を凝らす」というだろ。
あれだな。
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理念の「理」は筋道だ。
深い思いは、最初は混沌、漠然としている。
それに理性は筋道を与え、ハッキリさせる。
<理念は思いに筋道を付けたもの>
だから、理念とは「深い思いに筋道を与えたもの」となる。
そういう筋道だったイメージに、文字や、音声などの信号をくっつけたものが「言葉」だ。
創造神という「言葉」は、「自分以外の万物を創造した神」という理念を持っている。
なお、この理念は概念ということばと、当面同じと考えていい。
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神イメージの中身が、感慨であるのと理念であるのとでは、人の心理への影響が違う。
だが、そのことは次回以降にじっくり考えるとして、今回は、「感慨と理念の違い」をじっくり身につけておいてくれ。
新しい言葉を身につけるには、その知識を心に抱いたままで、しばらくいることだ。
心をそれに留め、黙想し、また自分の体験に照らし合わせてあれこれ瞑想する。
そこはかとなく・・・でいい。
これは学校で新しく学ぶ知識(学問知識)を身につけるときの秘訣でもある。
憶えておくといいよ。
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