鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

58.(臨時版)「見えない世界」を知的に認識する

2018年06月24日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

臨時版を差し挟む~。


日本人は、神とか、見えない世界のことになると、その存在を「ゼロか百か」という思考パタンでしか考えられない。

~この危険性を、鹿嶋はこのブログでも警告してきた。
 
 
 
だが、こんな程度の警告ではおっつかない。これはもっと繰り返し警告せねばならない。

そう痛感させられる事態を、最近も友人から耳にした。


 

<チャーチスクールの迷走>

彼も聖書の探求者だ。

探究するにつれ、この書物の持つ深い知恵に感銘し、それを取り入れて人生を送っている。

教会には所属していないが、外見的にはクリスチャンとみられている。

+++

その友人のお孫さんは、チャーチスクールに通う小学生だった。

一般にチャーチスクールには愛があり、自由がある。

また、聖書に基づいた世界理念、人間理念も教えられている。

(これは貴重なことである。特に戦後日本の学校教育は無理念教育だから)

+++

だが、あるときスクールの現場の先生は「生徒にもっと信仰を!」との情熱に燃え始めた。

子どもを集めて賛美歌を延々と合唱させて、もっともっと感覚的にキリスト教理念で包もうとした。

子どもたちには、長い賛美の繰り返しが終わると、ボーとしてしまっている姿がみられるようになった。

それを見て親(友人の娘)は考えた。

~小学生は、まだ、教科書の学問知識を用いて知力を育成していく段階だ。

なのに、学問文化は「世のもの」だとして軽視し、「天のもの」を歌う賛美歌に没入させようという。

善意なのはよくわかるが、これはもう洗脳ではないか。

 
 
 

<キリスト教観も悪化>


母親の考えは展開した。

~これでキリスト教会の正体もわかった。

やはり宗教なのだ。

人を洗脳して妄想に取り込もうとする。

そう考えた母親は、教会に、さらにキリスト教に失望した。

しばらくして子どもを居住区の公立学校に移した。

 

同時に鹿嶋の友人(祖父)からも孫を遠ざけようとし始めた。

子どもがキリスト教の影響を受けないように~と。

とにかく宗教的・キリスト教的なあらゆるものから、自分らを隔絶せねばならない、と。

~そういう話を友人はしていた。

 
 
 
<日本では起きるべくして起きる事態>


これは、(日本では特に)起きるべくして起きる事態だ。

根底に横たわる原因は、「見えない影響者」である神を認識する考え方にある。

「絶対的に信じるか、全く信じないか」の二つしか認識方法がないと、暗黙に思っていることにある。

こうなると、教会員は信じたら100%信じなければならない、という思いになる。

外部の一般人もまた「信者は100%盲目的に信じている妄想者だ」と思うしかなくなる。

「鰯の頭も信仰」というけど、全くその通りだなぁ~と思う。

+++

で、当の信仰者はどうかというと、「100%信じないといけない」という恐怖感に内心さいなまれれて暮らすことになる。

スクールでボランティアとして奉仕する先生方(教会員で信徒さん)も「子供たちの信仰を100%にせねばならぬ」という思いを内心もつことになる。

それが何かの契機で今回、発露した。

スクール生の母親は、そういう状況に抑圧感を直感した。

子どもをスクールから離し、自分も教会から離れた。

+++

繰り返すが、根底原因は「宗教は100%信じるか、信じないか」というものだ、という通念にある。

信仰者、未信仰者を問わず、日本人の99.99%はそういう暗黙の通念に落ち込んで暮らしている。


 
<在物神宗教しか知らなかった>

日本でそうなった理由は、歴史の中に在る。

日本人は歴史的に、(このシリーズで述べた)在物神宗教~物質の中に染み込んでいるとイメージされた神を信仰する宗教~しか持ったことがないからだ。

在物神には「神とはどういう存在なのか」を述べる理論がない。

ただ、物質(墓石や骨や像や建物や山や空などの)から受ける感慨だけがある。

感慨には論理はなく、漠然とした手がかりにしかならない。

これでは「信じるか信じないか」の選択~それは実質上百パーセントかゼロパーセントかの心理になる~に行くしかなくなる。

+++

だが日本人は、在物神宗教の経験しかないので、それ以外の認識方法を持たない。
 
その結果、「宗教とはそういうものだ」という思考が慣習になり、かつその思考が心底深くに染み込んでいる。

キリスト教会に通う信徒さんたちも~そして牧師さんも~そうだ。

だから、突然「世は悪魔のもの」という聖句をがぶ飲みして~詳細に吟味することなしに~福音賛美歌に子どもたちを没入させようともするのだ。
 
大人自身も教会で説教を聞いても、「これは100%信じねばならないもの」だとして、考えることをしないのだ。

 
 
 

<創造神宗教には神の理論がある>

日本には明治になってようやく、教典を伴ったキリスト教が入ってきた。

キリスト教は創造神宗教だ。

教典には「創造神とはどういう神か」を述べている理論がある。

そこには神を理性で吟味するという「知」の介入する余地がある。

理性というのは、創造神という「見えない影響者」の存在可能性を、まず、五分五分と考える。

だって、見えないのだからね。

見えないものを「存在する」と断言できないが、同時に、「存在しない」とも断言できない。

見えないのに「存在しない!」というのもおかしい。

「理性・知性」は自由にされていたら~恐怖感にさらされたりしないで~そういう風に働く。

それは「まずは五分五分だね」という風に働く。

 
 
<信仰に「知性」を>
 
使徒パウロの「信仰に知性を」も、そう認識すべきことを言っている。

それが~理性、知性という能力を与えられた~人間が採るべき、最適な姿勢という姿勢だ。

五分五分からはじめて、聖句と、生活体験とをつきあわせて探究をすすめる。

すると、心理的な確率が六分四分になったり、七分三分になったりするだろう。

また、逆に四分六分になったりもするだろう。

それでいいのだ。

それが理性を与えられた人間の採るべき道だ。

+++

ところがそれが日本では、「百かゼロか」の思考になってしまっている。

この暗黙の思考習慣が「信仰に知を」にカバーをかけて、見えなくしてしまっている。

そういう事態がもたらす悲喜劇が、今度の友人の話でまたまた露呈したのだ。

+++

友人は、日本には0.01%しかいない、希なる聖書吟味者だ。

「見えない世界」の存在可能性を五分五分から思考開始している。

世界には創造神が存在するという「オレの確信はいま70%くらいかな・・・」などといっている。

ところが、孫の親(娘)には「100%の妄想信者」としか見えない。

「当面、これは手が付けられないなぁ」・・・と彼はいう。

+++

それを聞いて鹿嶋は、日本人は危険な爆弾を抱きながら生きる民族だなぁ・・と、改めて思い知らされた。

「五分五分から始める思考」がいかに大切かを、もっと宣べ伝えねばならない、と痛感した。

 
 

<知の希薄な民族>

こんな思考状態が続けば、日本人の知性は、純朴なままだろう。

「見えない世界」への思考様式は、「見える世界」への思考にも影響する。
 
純朴な知性は、人民の政治見識にも現れる。

日本は世界でも珍しい、「政治見識の低い、経済だけの先進国」~との評が国際社会で定着しつつある。

この印象を終わらせる鍵も「五分五分思考」にある。
 
 
 
 
 
 
 



 
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