鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.113『はじめは半信半疑でいいのが聖書信仰』(8章)

2006年01月04日 | ヨハネ伝解読
~~2006年の正月のお祝い日も、終わりに近づいていますね。


~~昨日「いつも心が喜びに満ちた状態でいなさい」というのが聖書のもう一つの大原則だ、といいましたが、言葉足らずのところがありました。すこし追加しておきましょう。


                     


 この聖句に続いて~~、

 「なぜなら、これはキリストイエスのなかにある皆さんへの創り主の意志だからです」(テサロニケ人の第一の手紙、5章18節)

        ~~とあります。これを書いたのは使徒パウロと彼の愛弟子テモテだと聖書には記されています。が、彼らは聖霊の導きで書いたということですので、「喜びに満ちた状態でいなさい」というのは、創り主の望むことだ、となるでしょう。

 「いつも心が喜びで満ちた状態でいる」というのは、利己的なだけのことではないんですね。創り主は、人間がそうであることを望んでおられる。それが聖書の鉄則なんですね。


                     


 実は、この創り主が望まれるところは、他にも二つ並列されています。

 「絶え間なく祈りなさい」(5章17節)
 「すべてにおいて感謝を捧げなさい(Give thanks)」(5章18節)

~~がそれです。

これを字面(じづら)どおり並列的に受けとったら、なんだかよくわからなくなります。三つとも常にせねばならないとなれば、喜びつつ、祈りつつ、同時に感謝ていしなければなりません。複雑ですね。出来たとしても忙しいですよね。

 これらは、やはり、構造的、立体的に理解すべきでしょう。

 「祈り」は創り主との交信です。

 これをするとキリストイエスにある者の心には喜びが満ちます。

 「感謝」の心を持っても同様です。
 人の心には喜びがわきます。


                     


 ここでの「喜び」「祈り」「感謝」の関係は、相互に独立ではない。並列的でもない。
「祈り」と「感謝」が心が「喜び」で満ちるための原因になっているように見えます。

 やはりここでの焦点は「常に心が喜びで満ちていること」にあるようです。祈り、感謝をすることによって、喜びに満ちていることが、創り主はこの世での人間に求められている。これがもう一つの鉄則であるようにみえます。

 ~~であるとすれば、ですね。ヨハネもまた、そのことをよく承知しているわけです。彼は後世の人々が“この世では”(死後には永遠の仕合わせを得るためですが)この喜びで常に満ちているようになることを願って、この「ヨハネ伝」を書いていることになります。

 著者のそうした根本動機を感じながら,今日も「ヨハネ伝解読」を続けていきましょう。


                     


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=聖句=
 「諸君が人の子(イエス)を(十字架に)上げてしまった後になってはじめて、私(イエス)が“ありてあるもの”であることと、そして、私が自分の権威ではなにもしないで、ただ父が教えてくださったことのみを語っていることとを、諸君は知るでしょう」(8章28節)
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 “ありてあるもの”というのは、旧約聖書に出てくる言葉で、創り主を指しています。

 また、イエスが「私は父なる創造主と一つだ」という場合一つというのは、「思い」が一つということです。

 思いが一つというのは、各々が勝手に自分の考えを展開していたのでは、成り立ちませんよね。イエスは「父は真理を述べる方であり、自分はその父の語ることを聞いてそのまま語っている」といいます。

 そして理由は「父は自分より偉大だから」という。だから自分の方が耳を傾け、聞くままを語っているのだ、とイエスは告白しています。

                     

 この場面についてヨハネはこう記しています。

 「イエスが父なる創主について語っているここのところは、彼らはどうしても理解できなかった」と(27節)。

 当時のユダヤ人はどうしても、「創主は創主として独立に」理解したかったのですね。自然なことです。ユダヤ教は旧約聖書だけを教典にしていますから。

 「父、子、聖霊が三位一体」という神学の考え方は、新約聖書でイエスの教えが広く伝えられた上で出来上がる理念なのですね。


                     


 だからでしょうか、ここではイエスは、聴衆を叱らないんですね。むしろ人々が理解できないことを認めてあげています。それが本日の聖句です。諸君は「将来わかるようになるんだよ」と優しく言っています。

 「諸君がわたしを上にあげてしまった後で、わたしが何者であったのか、わかるようになるんだよ」(8章28節)

「わたしが父の教えてくださるままに語っていたということも、わかるようにもなるんだよ」(8章28節)。


                     


~~~そしてヨハネは記しています。

 「すると多くの人々はイエスの言葉を信じた」(8章28節)

なんとも意味深いところですねえ・・。

 イエスが創造主について語るところは、どうしても今は納得できない。納得できるようにイメージできない。けれども「将来わかるようになるんだよ」という「イエスの」言葉は信じられたというのです。

 ここのところは、「教え」というもの対する信頼(信仰)の、心理ステップを暗示しているように、春平太には感じられます。教えを聞いて、その中身を納得できるようにイメージするのは、通常そう容易なことではありません。そこでまずは「それを語っている人については」信頼する。

 イエスは信用できたのです。これはもう、彼の言動を見ていたら安心できた。信じた人々は、なにはともかく、イエスが好きだったのです。この方を愛していた。だから「いま中身がわからなくても、将来わかるようになるよ」と言われたら、その彼の言葉は受け入れたのです。
 

                     

 またこの箇所で春平太は、ある尊敬する牧者の次のような言葉を思い出します。

 「信仰ははじめは半信半疑でいいのです。それでも、意識にとどめていると、後は創主が時を見て真理だと悟らせてくださいます。聖書信仰というのは、そういうものなのです」と。

 考えてみれば、そうですよね。聖書には特に、論理がありますから。理屈もなくただ拝めという宗教とは違いますから。はじめは半信半疑であるのが正解なんですね。ここでも確率思考が正解。目を開かれた言葉でした。


                     


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