鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.116「15章 信教自由はどう実現されたか」(3)~ バージニア、憲法修正も主導~

2012年04月02日 | 「幸せ社会の編成原理」

  


      
       
バージニアは憲法案作成も主導しましたが、信教自由については特に孤軍奮闘で主導しました。

バイブリシストが主導するようになってからのバージニア議会はやることが一層早くなっていました。
前述の憲法案の批准が僅差でなると、州議会はその機に州の権利章典
(信教自由の項目を記した章典。ジョージ・メイソン起草)の採択もしました。

また近い将来開かれるべき合衆国憲法修正会議を見込んで、「バージニア修正条項案」も
作成し採択しました。
後に彼らは連邦議会でこれを「権利章典のバージニア案」として提出します。
こうした手回しの良さでもって、バージニアは連邦議会における憲法修正会議を
主導することになります。

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その一方でバプテスト聖句主義者たちは憲法修正を目指した全国的キャンペーン活動も
展開しました。
彼らは1788年に合衆国憲法が成ると、即座にその修正に関するイベント(討議会)を
全国いたるところで始めたのです。
バージニアのバイブリシストはさらに加えて総会を開き、
「新憲法の条項は信仰自由を守るに十分か」について大々的に議論しました。
      
+++

次年度の1789年4月30日、ワシントンは初代大統領に就任しました。
当時の首都はニューヨークでした。
合衆国政府がスタートするとバプテスト教会の指導者たちは速やかに
「この憲法のままでは、政府が宗教に干渉していく余地がある」との判断を
マディソン州議員らと念入りに確認し合いました。

そしてその問題をワシントンとも話し合うべく代表団を首都に送りました。
代表者たちは「政教分離、信教の自由がまだ不安定な状態にある」
「宗教に関する条項については、直ちに修正(アメンドメント)すべきである」
などの見解を新大統領に熱く説きました。



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Vol.115「15章 信教自由はどう実現されたか」(2)~マサチューセッツは強固な政教結合州~

2012年04月02日 | 「幸せ社会の編成原理」

    

                 

だがここでもバイブリシストは立ち上がっていきました。
彼らがこの運動を展開する足場としたのほとんどもっぱらバージニアでした。
独立革命を牽引した二大雄州、マサチューセッツとバージニアを他州は尊敬していましたが、
こと政教分離の確立に関してはマサチーュセッツはほとんど助けになりませんでした。

歴代アメリカ大統領のうち初代から5代までのうちの四人(ワシントン、ジェファーソン、マディソン、モンロー)
までがバージニア州から出ています。
2代目だけがマサチューセッツ出のジョン・アダムスです。彼は独立戦争の英雄でした。
総司令官ワシントンの副官として働き、ワシントンが大統領になったときには副大統領になっています。
この彼が以前より強固な公定宗教主義者でした。

彼はマサチューセッツ州議会でバプテスト聖句主義者を激しく批判していました。
「州宗教税への反対分子を作り、大陸会議を分裂させる連中」と非難していたのです。

それでいて彼自らは、すべてのキリスト教派の自由にもっとも寛大だと自認していました。
彼が考える自由は、「各州がおのおの自分の望む公定宗教をもてる自由」でした。

1779年にマサチューセッツ州は「組合派(同志社大学を創設した教団)の聖職者を
宗教税でもって支える」という州憲法を制定していました。
その10年後の1789年当時においてもアダムスは公定宗教制に固執していて、
政治と宗教を切り離そうという動きを強く押さえていました。

結局この州では政教結合の制度が1834年まで続いています。
国の憲法が政教分離を定めた後であっても、州の独立性でもってそれを続行していました。
独立戦争の雄、マサチューセッツは信教自由については全然助けにならなかったのです。


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Vol.114「15章 信教自由はどう実現されたか」(1)~大勢が肯定しないテーマ~

2012年04月02日 | 「幸せ社会の編成原理」

  
      
       
この章では政教分離をうたった「権利章典」が合衆国憲法に挿入され、
遂にこの地上に信教自由国家が現れるに至る様を示します。
     
      +++
      
アメリカ植民地は本国英国との戦争に勝利して独立国となり、憲法も成立させ立憲国となりました。
だがバイブリシストは休みませんでした。
三段跳びの最後のひと跳び、信教自由に向けて彼らはすでに動いていました。

信教自由の実現は前の二つのステップにもまして難関でした。
もちろん独立戦争を実現させるのも容易ではありません。
それには十年にわたる思想宣伝活動、連合政府設立、武器収集と軍隊作成などの準備が必要でした。
また憲法確立をアシストするにも前述したような驚異的なねばりとエネルギーが必要でした。

だがこの2ステップでは「人心の一致を得る」のが比較的容易でした。
独立のための戦と成れば人民の心は奮い立ちます。
憲法制定は、法文による規制への恐れがある程度あったものの、多くの人々は基本的には
必要だと思っていました。

対して信教自由は状況が違っていました。
前述のように信教自由のためには政教分離が必須条件です。

だがトーマス・ジェファソンは~
「1800年前後には合衆国は国定宗教を一つ持つべきという考えが大勢で、
とりわけ聖公会と組合派にはその思想が強かった」~と述懐しています。

国民の大半は政教分離に否定的でした。
そうしたなかで信教自由を実現しようというのはほとんどドンキホーテの企てでした。


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Vol.113「14章 合衆国憲法を成立させる」(5)~バージニア批准会議での叡知~

2012年04月02日 | 「幸せ社会の編成原理」

      
      
       

もう一つの雄州バージニア州での帰趨が影響するところも同様に大きいものがありました。
その結果を注視していた州がやはりあったのです。

この雄州では1788年6月にリッチモンドで批准会議がもたれました。
賛否の空気はマサチューセッツと同様に半々でしたが、ここでの反対者は主に非聖句主義者でした。

そしてその中には前述の弁護士パトリック・ヘンリーがいました。
前述のごとく彼は超有能弁護士で、ひとたび口を開けば神聖なる天上から全会場に
雷鳴がとどろくごとくになるという比類無き雄弁家でもありました。

「新憲法には君主主義的傾向がある」 との彼の主張は、自由を熱烈に愛する人々の
心を揺さぶりました。
「この罪深き憲法案を神は許し給わず・・・」と叫ぶ彼の演説は聴衆を圧倒したと伝えられています。
       
だがこうした事態は聖句主義者ネットワークの十分予測できることでした。
彼らは有名な「連邦主義者(ザ・フェデラリスト)」という連載論稿の著者、
ジェームズ・マディソン(後の第四代大統領)を州議会に送り出しました。
彼が「黄金の声」と呼ばれた発声でもって行う演説もまた大きな説得力を持っていました。

 


彼の議会への登場には裏話があります。
彼はバージニア州オレンジ郡の代議員のポストをジョン・リーランドという
バプテスト教会の長老と争っていましたが、選挙には劣勢状況にありました。
オレンジ郡は特にバプテスト色の強いところで、リーランドが圧倒的に優勢だったのです。

けれども選挙が間近になると異変が起きました。リーランドが突然候補者を辞退したのです。
そしてマディソンを当選させました。

そのマディソンが、パトリック・ヘンリーに応戦しました。
連邦国家と憲法の必要を黄金の声で諄々と説きました。
その結果、草案は87票・対・77票というこれまた僅差で批准がなりました。

かくして⑩バージニア(87対77)となりました。
      
+++

憲法がなるには全13州の内の9州の承認が必要でした。
それまで9つの州で批准会議がもたれ前述のようにニューハンプシャー州は否決していました。
バージニア州は十番目の州で、これが批准することによって合計9つの州で批准がなり、
憲法成立となりました。

バージニア州の結果に応じて、残りの三州も承認し、結局12州で批准がなりました。
もしバージニアが否認となればどうなっていたか。
残りの州はそれに合わせて批准しなかっただろうといわれています。

実質的には首の皮一枚を残しての憲法成立だったわけです。
これも幸運とみられていますが、承認にはバプテスト聖句主義教会のリーランド長老が
大きな働きをしていたわけです。これは聖句主義者だけが知る裏話です。

かくして以下⑪ニューヨーク(30対27)、⑫ノースカロライナ(194対47)、
⑬ロードアイランド(34対32)となりました。

ロードアイランド州は憲法会議に代表を送ることすら拒否し、批准会議の開催自体を
否認していましたが、最後に僅差の批准をするに至りました。
       
聖句主義者は米国憲法成立においても産婆役で奮闘したのです。
彼らの陰に陽にのアシスト活動がなかったら今日みるような合衆国憲法はできていませんでした。

(次回から15章に入ります)


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Vol.112「14章 合衆国憲法を成立させる」(4)~マサチューセッツ批准会議での奮闘~

2012年04月02日 | 「幸せ社会の編成原理」

        
      
       

憲法草案は各州議会において批准(承認)がなされる必要がありました。
憲法会議は、13州の内9州での賛成が得られると憲法は成立とするとの決定をしていました。

ここで結論の出た順番に州会議の結果を見ていこうと思います。
話は細かくなりますが、聖句主義者の働きを見るためには必要なのです。

前述のように、バイブリシストは全国的な草の根ネットワークを形成しています。
バージニアでの問題にはバージニアの聖句主義者が働きます。
だが憲法制定のような全国的問題には各地の聖句主義者が互いに自分の州の議会動向を
発信しあい速やかに連携行動をとっていくのです。

ではこれから批准の流れを二回に分けて追ってみます。
州名の上の数字は、決定がなった順番を示します。
括弧内の上の数字は賛成数、下の数字は反対数です。
     
      +++
      
まず①デラウェア(30対0)、②ペンシルバニア(46対23)、③ニュージャージー(39対0)、
④ジョージア(26対0)、⑤コネチカット(128対40)で批准がなりました。
      
六番目はマサチューセッツ州でした。
前述のように当時この二つの州とニューヨーク州は人口面で三大州でして
その合計が大陸人口の半数を超えていました。
      
そうしたなかでこマサチューセッツとバージニアの動向を他州は尊重していました。
この二州は明治維新時の日本で言えば、維新革命を牽引した薩長二大雄藩のような
存在だったのです。

マサチューセッツはボストン虐殺事件や茶会事件など独立戦争の契機をしかけた
主要舞台でして、実践現場で活躍する革命家を輩出した州でした。

バージニア州は総司令官ワシントンや独立宣言を起草したジェファーソンを出すなど、
戦略と統治と文書の知性が豊かな独立戦争の貢献者でした。
他州の両州への尊敬感情には非常なものがありました。
      
ところがこの二大雄州は共に草案の批准への反対者を多く抱えていたのです。
今では考えられないことですが、背景には法律文書という知恵の用具に対する警戒心がありました。
「法文が動かざる規則となって人を縛る面」への警戒心です。

当時米国では、知識人も愛国者も政治的に最優秀と見られていた人でさえも
その心情をもっていたと言われています。
ですから彼らのかなりな部分が新しい法律制定にまずは抵抗し、
時には雄弁をふるって反対したのです。

この心情はロードアイランド州の行動にも見ることが出来ます。
すでに信教自由の憲法を100年以上にわたって享受していたこの州は、
中央政府からの統治を極度に恐れ、批准州から離脱し続けたくらいでした。

そんなわけで憲法草案への支持・不支持は両州ともにほぼ半々にわかれていたのです。

      +++
      
雄州マサチューセッツの帰趨は重要でした。
その結果を参考に態度を決めようとする他州がいくつかあったからです。
州議会は1778年6月9日に開始され、一ヶ月間に渡って約400人の議員が論争しました。

ピューリタンの多いこの州では合法的統治の志向が強かったのですが、
それでも一般議員の賛否は半々で、バプテスト聖句主義者議員の姿勢が決定を左右する
状況にありました。

では彼らはどうだったかというと、なんと会議前にはその空気は概して批准に反対でした。
聖句主義者に賛同意識が薄いというのは意外な感じもしますが、
ピューリタンは基本的に厳格なる規制論者です。
こういう人々が大勢を占める州の中にいると、憲法という法文が強固なルールを社会に挿入し、
従来享受していた自由を制約するという懸念が大きく感じられるのでしょうか。

それにこの憲法案に信教に関する条項が明示されていないことへの不安も影響したでしょうか、
このあたりは明確ではありませんがとにかくバプテスト議員たちに賛同の空気は薄かったのです。

だが、聖句主義ネットワークはその情報を速やかにキャッチしました。そして対策に動いたのです。

マサチューセッツの聖句主義者議員の多くは牧師でした。
彼らは皆、同じバプテスト教会のマニング神学博士を非常に尊敬していました。
このマニングが動きました。これに一般人気の高かったスティルマン神学博士が協力しました。

二人は、新憲法が成らねば国は無政府状態に陥ると、二週間にわたって説得し続けました。
その結果、マサチューセッツでは賛成187票・対・反対168票という19票の僅差で
批准がなりました。
      
⑥マサチューセッツ(187対168)となったわけです。

次いで⑦ニューハンプシャー(30対70・・・否決)、⑧メリーランド(63対11)、
⑨サウスカロライナ(149対73)となりました。

9州の内8州で批准がなりました。あと一州で憲法成立です。
成否はバージニアでの結果にかかっていきました。


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Vol.111「14章 合衆国憲法を成立させる」(3)~聖句主義土壌による知性か~

2012年04月01日 | 「幸せ社会の編成原理」

       


アメリカ憲法の草案が合意にいたるまでに論議された課題、その吟味の詳細さ入念さ、
注入された日数とエネルギー、そこに働いた知性、経験、政治技術、人格のいずれをも兼ね備えた
数多くの人々~これらはいずれも後年歴史家に驚異の目でみられることになります。

入植後二百年足らずの植民地に、どうしてこれだけの知性がそろったか。
ここには聖句主義活動が形成する特有の知的土壌が働いているように思われます。
米国でのそれを裏付ける資料を筆者は持ち合わせていませんが、
英国のケースでは若干の情報があります。

バプテスト聖句主義者とわかっている知性に、まず『失楽園』の著者ミルトンがいます。
彼は盲目にしてこれを書いています。
『ロビンソン・クルーソー』を著作したダニエル・デュフォーも英国バプテストです。

キリスト教文化圏では聖書に次いで読まれている本『天路歴程』の著者バニヤンもそうです。
彼は聖句主義信仰の故にブラッドフォードの牢獄に入れられている間にこれを書きました。
このような知力・文章力が聖句吟味の土壌から生まれているのです。

万有引力の発見者であり微積分学の創始者ニュートンも聖句吟味活動を入念にした人です。
彼にバプテスト聖句主義教会とのつながりがあったかどうかは不明ですが、
こうした科学的発見の前に彼は旧約聖書の中の『ダニエル書』と新約聖書における『黙示録』
の解読書を書いているといいます。

そのための聖句吟味は万有引力の法則などのアイデアにまちがいなく貢献しているでしょう。
微積分学の基になる無限大の概念も聖書由来のものです。

憲法成立のために非常な働きをした人には、マディソン、ジェファーソンら
聖句主義者そのものでない人もいます。
だがこういう「感性を伴った知性」が育つにはやはりバイブリシズム土壌の影響が伺われます。



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Vol.110「14章 合衆国憲法を成立させる」(2)~バージニア、憲法草案作成を先導~

2012年04月01日 | 「幸せ社会の編成原理」

   

     
        

憲法案会議は5月29日から9月17日までフィラデルフィアで開催されました。
議長はバージニアのジョージ・ワシントンでした。

新国家で憲法案を作るというのは、白紙のキャンパスに絵を描いていくような作業です。
中央政府の構造を描くだけでもも数多くの課題がありました。

大統領制にすべきか議院内閣制にすべきか、議会は一院制にすべきか二院制にすべきか。
立法、司法、行政の関係はどうすべきか。
大統領に議会の立法に対して拒否権を与えるべきか、
与えるとしたら絶対拒否権か、あるいは議会にくつがえす余地を与えるべきか
~等々限りがないようにみえました。

これらを個々別々にではなく、理想とする国家の全体像の中で適切に決めていくのは超難問でした。

ところがバージニア州代表団は会議のための決議案(バージニア決議案)を準備していて、
これを手回しよく初日から提示しました。
そこには連邦政府の構造案が示されていました。
委員会はこれを討議する形で進めることができました。

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もう一つの大課題は中央政府と各州との権限配分に関わるものでした。
これについてもバージニアはまたも手回しよく、統一国家政府案(バージニア決議案報告)を
6月13日に提出しました。
そこには連邦政府と各州との関係を中心にして新しい統一国家政府としての連邦政府が
描かれていました。

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州の前身は地域植民地で、各々の独自の体制で統治していた統治体でした。
連邦政府案はその権限の一定部分の委譲を求める案ですので、
こういうものを前もって熟慮してこなかった者は、はじめて聞くと強い危惧を抱くものです。

バージニアが決議案を出した二日後の15日にニュージャージー州が、
各州に主権を保持させたままでの連邦政府の案をニュージャージ決議案として提出しました。
それは「強力な連邦政府のための案」と題されていましたが、
実質はバージニア案よりも「強力でない」中央政府の案でした。

けれども委員会は両案を巡っての論争を数日間続けました。
米国人はこういう時には徹底的にやるんですね。後年福沢諭吉がこれをみて驚嘆し
『西洋事情』に書いています。

13州は各々中央政府にどれだけの権限を委譲すべきか。
各々の州の立場から主張がなされ大激論になりました。
そして6月19日、会議は7州対3州でニュージャージー案を否決し、
バージニアの統一国家案をベースに案を作成することになりました。

外国との条約の締結はどうすべきかの案も作られました。
憲法草案の批准はどういうルールでなすべきかも議論され、
十三州のうち九つの州が批准したらそれは憲法として成立すると決められました。

こうして成立した憲法法案は、各州議会での批准にゆだねられることになりました。



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Vol.109「14章 合衆国憲法を成立させる」(1)~大枠手順を決める~

2012年04月01日 | 「幸せ社会の編成原理」

   



この章ではアメリカ合衆国に最初の憲法の大枠が確立する様と、
そこにおける聖句主義者の奮闘を示します。
     
      +++
      
バージニア州で信教自由がなった二年後の1787年、新独立国は憲法制定の作業に入りました。
全州が参加する連合会議が成立し、そこに憲法草制定会議(憲法制定全体委員会)が
立ち上がりました。

会議の開催にはバージニアを中心としたバプテスト聖句主義者の全国ネットワークが
主導的に働いたでしょうし、その運行は間違いなく彼らが主導しました。

憲法成立に至るまでには大きなステップが二つありました。
憲法草案を作成すること、そして法案が大半の州で批准(同意、承認)されることがそれでした。

憲法草案には三つの骨子分野がありました。
第一は、中央政府をどのような構造にするか。
第二は、中央政府と各州との権限配分をどうするか。
そして第三は、国家の宗教(教会)活動をどうするかでした。

第三の宗教のありかたについては激しい議論紛糾が予想されました。
この案を最初から決定しようとすれば案の合意すらも難しくなるだろう。
そこでこれを除いた憲法案でまず合意をえてそれを批准に持ち込み、憲法が成立したら
その後に憲法修正会議を開いて宗教政策は吟味しようという手順になりました。

第二の中央政府と各州との権限配分の問題も大紛糾が予想されましたが、
これを取り決めないでは憲法案にはなりません。
そこで詳細な点は後にして、まず基本骨子部分の案はつくることになりました。

そうして出来た案の批准をまず各州に問おうという手順になりました。


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