説明を要しない両巨匠の写真展を梯子するという贅沢(笑)。
ただ、白黒フィルムの扱いは随分違う。
須田一政の写真展『千代田の松』(6/1-23、PAST RAYS)(→リンク)では、皇居脇の松の箱庭で匍匐前進し、権力、あるいは形骸化しながらなお東京の中心にある装置(ロラン・バルト)、の化物性をあぶり出している。松は接写すると鱗を持つ怪獣のように見える。それがごつごつヌルヌルと変な形をとる様は、安部公房の『デンドロカカリヤ』を思い出させもする。
ギャラリーの方とお話した。まるで芝が雪のようで(2・26?)、靄がかかったような幾つもの作品は、赤外フィルムを使ったものとのこと。また、粒子が目立つプリントなので、表面がざらざらの印画紙はやめ、フォルテの光沢のもの(最近、製造中止になったが・・・)を使っているということだ。いつものように、いくつもの技術を繰り出していて(赤外フィルム、反射望遠レンズ、ブレボケなど)、それがそれぞれに効果を上げている。
やはり期待通り、魑魅魍魎を皇居に出現させた。見る人が見たらどういう感想を抱くのだろう。
◆
それから、田町で石元泰博の写真展『シブヤ、シブヤ』(6/4-30、フォト・ギャラリー・インターナショナル)(→リンク)。
赤城耕一氏のエッセイによると、キヤノンEOS-1Vを腰に構え、ノーファインダーで渋谷の交差点を徘徊していたということ、その成果がこの作品群ということなのだろうか。
ほとんどは、道行く人のTシャツなどの背中を被写体としている。凶悪なもの、全学連、意味のない英語、リキテンスタインなど様々だ。だが、とても心が温まるようなものではない・・・プリントは目に優しい素晴らしいものだったが。一点、女性の背中に撮影者たる石元氏の顔の影がはっきりと写っている。この控えめさと執拗な攻撃、きっと自分の悪意をも淡々と眺めつつ、時にはそれを敢えて発露しつつ、続けたのだろう。
今回の『シブヤ、シブヤ』ではない大判写真のシリーズもあった。渋谷や新宿の建物や交差点待ちの人々を、精細に記録したものだ。35ミリの作品と併せて観ると、本当に眼が悦ぶのがわかる。
駅から遠いが足を運ぶ価値は大いにある。

ただ、白黒フィルムの扱いは随分違う。
須田一政の写真展『千代田の松』(6/1-23、PAST RAYS)(→リンク)では、皇居脇の松の箱庭で匍匐前進し、権力、あるいは形骸化しながらなお東京の中心にある装置(ロラン・バルト)、の化物性をあぶり出している。松は接写すると鱗を持つ怪獣のように見える。それがごつごつヌルヌルと変な形をとる様は、安部公房の『デンドロカカリヤ』を思い出させもする。
ギャラリーの方とお話した。まるで芝が雪のようで(2・26?)、靄がかかったような幾つもの作品は、赤外フィルムを使ったものとのこと。また、粒子が目立つプリントなので、表面がざらざらの印画紙はやめ、フォルテの光沢のもの(最近、製造中止になったが・・・)を使っているということだ。いつものように、いくつもの技術を繰り出していて(赤外フィルム、反射望遠レンズ、ブレボケなど)、それがそれぞれに効果を上げている。
やはり期待通り、魑魅魍魎を皇居に出現させた。見る人が見たらどういう感想を抱くのだろう。
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それから、田町で石元泰博の写真展『シブヤ、シブヤ』(6/4-30、フォト・ギャラリー・インターナショナル)(→リンク)。
赤城耕一氏のエッセイによると、キヤノンEOS-1Vを腰に構え、ノーファインダーで渋谷の交差点を徘徊していたということ、その成果がこの作品群ということなのだろうか。
ほとんどは、道行く人のTシャツなどの背中を被写体としている。凶悪なもの、全学連、意味のない英語、リキテンスタインなど様々だ。だが、とても心が温まるようなものではない・・・プリントは目に優しい素晴らしいものだったが。一点、女性の背中に撮影者たる石元氏の顔の影がはっきりと写っている。この控えめさと執拗な攻撃、きっと自分の悪意をも淡々と眺めつつ、時にはそれを敢えて発露しつつ、続けたのだろう。
今回の『シブヤ、シブヤ』ではない大判写真のシリーズもあった。渋谷や新宿の建物や交差点待ちの人々を、精細に記録したものだ。35ミリの作品と併せて観ると、本当に眼が悦ぶのがわかる。
駅から遠いが足を運ぶ価値は大いにある。
