ポレポレ東中野で、ドキュメンタリー映画『ひめゆり』(柴田昌平)を観た。
行こうと思えばもっと早く行けたのだが、今になった。受け止めきれないほどのメッセージが刺さり覆いかぶさってくるに違いないことを思い、少し怖いというか、気が重かったわけである。
そして、実際に受け止めきれなかった。それぞれの経験を吐露される方々と相対するような気になり、悲しくてやり切れず、終わったらすぐに映画館を後にした。情けないかな、大島渚『夏の妹』で、ひめゆりの塔の前でビールを片手に呆然とよろめく殿山泰司と同じである。
ただ、これを「カタルシスを得るための感動映画」に堕してしまわないためには、この重さを受け止めようとする個々のありようが問われるのだと思う。泣いてしまって恥ずかしかろうが、加害者の一味として(この国の国民であることはそれを意味する)気まずい思いをしようが、それぞれが、このメッセージを澱として気持ち悪く残しておかなければならない。その意味で、宮本亜門がチラシで謳っているように、皆に観てほしい。 ひめゆり学徒の生き残りのある方は、目の前で女友達が無惨に死んでしまうのを見る。婦長に告げたところ、「これが戦争なのだ」と言われ、もしそれが本当なら、何度も同じ体験をしなければならないのかと悟り嗚咽する。
どんな人間であっても、そのように心の一部がざっくりと抉りとられることに何度も耐えられるわけがない。 しかし、私たちは、これを自分のことに置き換えて想像する義務がある。もし肉親だったら?火炎放射器の向こうに自分がいたら(当然、米軍の記録フィルムは火を噴く側から撮られている)?忘れなければ苦しい記憶を刻み込まれたら?ましてや戦死が美化などされてしまったら?・・・ 確実にいま言えることは、この個々の「人」単位の声は、過去の記録にとどまらず将来の私たちにつながっているということだ。ひめゆり学徒の方々の証言に耳を傾けるとき、「一人」が、同時に「全て」を覆うことが痛いほど感じられる。日本が「戦争をする国」になってしまうとき、それに伴う私たちの戦死は、それが一人であっても「全て」なのだと思う。 このときに、政治家、権力者、為政者は、間違いなく「一人」側にはいない。現首相が、岸信介を例に挙げて「一人」側に立たない政治家のあり方を正当化し、また、現防衛大臣が、戦争による犠牲者を数で判断すると考えていることを思い出せば、これは杞憂ではないだろう。
「日本が「戦争をする国」になっていくとすれば、彼ら(注、為政者)は必ず、国民の犠牲、まずは兵士の犠牲にどこまで国民の意識が耐えられるかを考えるはずです。百人中の10人(注、現防衛大臣による犠牲者数のたとえ話)、つまり一割というのは恐るべき数字です。(略) はっきりしていることは、そのときに為政者は自分たちを必ず生き残る側、安全な側に置き、国民に犠牲を求めているということです。 沖縄戦は、全くそのようにして行われたわけです。 (略) 沖縄戦の記憶の改竄を許さず、沖縄を犠牲にして強化されてきた「日米軍事同盟」とは異なる道を見出さなければならないと思うのです。」 (高橋哲哉『浮かび上がる「靖国」の思想 教科書修正の背後にあるもの』、『世界』(岩波書店)2007/7所収)