Sightsong

自縄自縛日記

陳凱歌の映画

2007-12-08 23:43:24 | 中国・台湾

陳凱歌(チェン・カイコー)の映画を何となく3本観た。

私が知っていた陳の映画は、『黄色い大地』(1984年)のみ。『人生は琴の弦のように』(1991年)は、それと同様に、地味ながらエキセントリックな演出がそこかしこにあり、素晴らしい映画だった。盲目の老人は、琴を弾いて旅をしている。その師匠から教えられた、「100本の弦が切れたら眼が見えるようになる」という言葉は、そのときになって、嘘であったことを知る。絶望する老人だが、弦を切ってきた過程や、人生自体が意味をもつことに気づかされる、ということだと思う。老人の顔、弟子に恋をする女性の視線、河沿いにある飯屋の主人のたたずまいなどがとても魅力的。

次作『さらば、わが愛/覇王別姫』(1993年)は、京劇の役者兄弟の人生を、日中戦争、太平洋戦争、共産党による国家成立、文化大革命などの歴史の中で描いていく長編ドラマ。陳は文革期に少年時代を過ごした。その陳にとって忌まわしいに違いない文革を、このように突き放して振り返ることができていたのか、という印象を持ちながら飽きずに3時間程度を続けて観た。京劇ってこのようなものなのか、こんど機会があれば観に行こうと思う。

最近の『PROMISE/無極』(2005年)は真田広之、チャン・ドンゴン、セシリア・チャン、ニコラス・ツェーが共演していて、中国に加え、日本、韓国、香港も製作に関与している。明らかにカネがかかった超大作の歴史おとぎ話。これ見よがしなCGが満載で(カップヌードルのコマーシャルみたいだ)、冗談としてしか面白くなかった。

こうみると、大作になるほどつまらなくなってきたヴィム・ヴェンダースのようだ(ヴェンダースは無事回帰したと思っている)。陳の映画としては、地味な小品をこそ観たいと思う。しかし、撮影中の次作もレオン・ライ、チャン・ツィイーを起用した京劇もの『梅蘭芳』のようだ(2人とも好きな俳優なので、これはこれで楽しみだが)。梅蘭芳は伝説的な京劇の女形だそうで、『覇王別姫』の女形と関連があるのだろうか。


太田昌国『暴力批判論』を読む

2007-12-08 10:59:17 | 政治

太田昌国『暴力批判論』(太田出版、2007年)が9月に出版されてから何度か読んでいる。世の大勢を占める、たかを括ったような「強者の論理」に対し、怒りをもって「別の論理」を打ち出そうと試みている。

ここでの強者とは、米国であり、新自由主義であり、それに追随する他国の政府(勿論、日本も含まれる)であり、さらにはそれを下支えする市民とメディアといったところだ。そして別の論理を支えるものは、多くの者が見ようとしないところでの受苦の歴史であり、平和の理想であり、強者の構造を明らかにしようとする論考の力である。その意味で、怒りとはいいながらも論考は静かに進んでいく。批判の対象としているのは、あくまで対話を前提としない、一方的に押し付けられる暴力的な制度だ。

著者は、ボリビアの映画制作集団ウカマウの作品から次の台詞を引用している。ここから、私たちは様々な起きてしまっている現象を思い出すことができる。

「きょうは暴力について学ぼう。民衆は抗議する権利をもつ。要求する権利もある。暴力に拠らずに、だ。(略)正しい対話をするためには、双方が共に主体的に決定する力をもった対話者であることが必要だ。もし片方が、その場にいない権力に操られているのであれば、正しい対話というものは成立しない。いいかな。暴力が生まれるのは、そうした場合だ」

平和憲法の理念については、「人びとがごく自然に持っているらしい「国家である以上、軍隊を持つのは当たり前」という前提そのもの」に批判を加え、九条の理念の現実化に重要性を見出している。

大量殺戮がなお成立していることについては、国家がそのような「権利」を持つことや人間の「死」が前提とされている、その明らかな不自然さへの弁解として、「「抑止効果」や「テロや戦争をなくすための戦争」」という言葉が用いられることを喝破している。

メディアについては、「現代人の精神形成に大きな影響力を行使している」テレビに関して特に、「明らかに異論は排除されて、ひとつの流れに沿う考え・意見に独占されている」危うさを提起している。

米国による「9・11」の悲劇の独占。チリにおけるアジェンデ社会主義政権(一般選挙を通じて世界史上初めて成立)を打倒したピノチェト軍政は、例によって、米国に支援されたものであった。それは1973年9月11日のことだった。それも含め、世界には数多くの「9・11」があふれていることを理解しなければならない。そして、著者は、いくつもの「9・11」を人為的に引き起こしたのは、他のどの国よりも多く米国であることを告発する。(これは勿論、2001年の「9・11」の陰謀論などを指すのではない。)

「米国が自己の姿をこのような歴史的現実という鏡に映し出して自己検証することができたならば、2001年の「9・11」は、現状とはまったく別な結果を持ちえたかもしれない。(略)真の悲劇は、その正気の声の持ち主は圧倒的な少数派に留まり、米国は、私たちが実際に見てきているように、「反テロ戦争」を遂行してきていることにある。」

ひとつの象徴として、他ならぬキューバにある米軍基地グアンタナモで、「反テロ戦争」で捕捉された捕虜たちが虜囚され、拷問されていると伝えられていることが挙げられる。このことは人権団体などが訴えているものの、テレビや新聞などといった世論形成装置で伝達されることはほとんどない。2001年の「9・11」に起因する暴力の連鎖を諌めたヴィム・ヴェンダースの『ランド・オブ・プレンティ』(→感想)に対し、最近のマイケル・ウインターボトム『マイティ・ハート 愛と絆』(→感想)の愚劣さを改めて感じてしまう。

この本で手がかりにしている事象は他にも多様だ。北朝鮮の拉致被害者。ボリビアのモラレス政権。ベネズエラのチャベス政権。死刑制度の是非。中国の反日機運。メキシコのサパティスタ解放運動。イラクの故・フセイン大統領。どれもが、「強者の論理」に沿って、安全な位置から一方的に裁くことの非につながっている。これが、現在の日本の姿(体制だけでなく、他ならぬ私たち)に重なってくるのは不幸なことだが、たかを括るのはさらに罪を大きくしてしまうことになる。

国の暴力について、著者がまとめた論点を、少々長くなるが引用したい。もやもやした問題意識に、ひとつの解を与えてくれるような気持であるからだ。国際政治などの現実論らしきものを、したり顔で語るミニミニ政治家・評論家であるより、将来の理想を持つべきではないか。

「(1)「敵の先制的な攻勢がある以上、これに武力で対抗することは不可避であり、必然的だ」とする思考方法に留まることは、少なくとも止めること。それは、「なぜ」「いかにして」「いつまで」などの問いを封じ込めることに繋がり、「その選択は暴力の応酬の、無限の連鎖である」とする批判的な解釈に応答しないことを意味する。
(2)(略)仮に、それ(※軍)が過渡的には必要な活動形態であることを認める場合であっても、本来的には、軍の廃絶、すなわち兵士のいない社会、戦争のない社会を、未来から展望するという視点を手放さないこと。
(3)(略)海外派兵に対する批判活動を、現行憲法九条に依拠しつつ、さらには、いかなる国家にせよ国軍を持つ根拠自体を批判し、その廃絶を企図する展望のなかで行うこと。その際に、上記(2)の立脚点は大きな意味をもつことになる。」